「…そ、そうか…リーナだったのか……」

「そのリーナっていうのは誰なんだ…?」

「エルヴァンティスの第四妃」

 答えたのは藤堂だった。どういう事かと皆が注視する。藤堂は両手を、揃えた両膝の上に置き、満面の笑みを浮かべて座っていた。

「私のお姉さん」

「フロリア…?」

 最上の問いに藤堂は首を縦に振った。

「ごめんね? 私、起きてたんだ実は」

何と藤堂は既に覚醒しているようだった。先程から大した驚きもせず、水鏡の心配ばかりしていたのには、そういう訳があったのだった。

 すると突然、七海が藤堂の首に抱きついた。

「あんた…フロリアかい?…あたしだよ、分かるだろ?」

「く、苦しいよ、エルフレム……」

 七海は藤堂の両肩を掴んだまま

「そうだよ! 紅獄のエルフレムさー。アッハハハハハハ…」

 それを眺めていた水鏡に疎外感は無いだろうかと、最上は水鏡の肩を左手で抱いた。

「ん…大丈夫だってば……」

ありがとう。そう言っているようだった。最上は安心してそのまま抱いていると、水鏡の暖かい右手が、最上の左手に添えられた。

やがて一同は駅へ向かう。最上は見送りに駅前まで行った。

「いやぁーしかし今日の最上達見たら、妬くぞ? ヘイラムの奴」

改札の前で立ち止まり、七海が最上を振り返る。藤堂がその左手に立ち、笑顔で七海を見上げてから、最上にもその笑顔を寄越した。

「ヘイラム…って先生? だね」水鏡が最上の左で言い辛そうに答えた。

「何たってあいつ、前世じゃあ、あんたの奥さんだからな」

「げっ!? ……ぜ、前世の奥さんだろう? 今は今じゃないのか…?」

「アッハッハッハ…最上、その暴言、致死量!」七海はゲラゲラ笑った。

 最上も笑いながら、いつか見た夢を思い出し、密かに思いやった。

“そう言う事か…”

 『思い出して欲しいわ』それはそういう意味だったのか。済まない。全ては前世の俺の為に…。

 やがて三人を見送った最上は、儚さで埋め尽くされた胸に、涼しくなった春の空気を吸い込んで、足早に立ち去った。

 不意に意識が連れ去られたその刹那、最上は頭に届いた僅かな声を把握した。それは紛れも無い、最上がこの世に生まれる前の『記憶』であった。

 残念ながら情景は浮かばなかったが、そこには妙に引っかかる何かがある。怒号や叫びに混じった会話であった。

それは―――

「止むを得ぬ! 既にヘイラム、バーチュリーは先に降りた! エルフレム! お前達も行け!!」

「うるせぇ!! 喰らえぃ、下賎な者共!! 紅炎斬(こうえんざん)!!!」

「手強いな! ここは俺とガウロンで何とかする。エルヴァンティス! 奥方を連れて退け!」

「おう! エルヴァンティス、この場は引き受けた! 先に行け!」

「私が引けば、士気は維持できぬぞ!…」

「馬鹿言ってんじゃねえー!! お前が死んだら滅亡だ! お前が生きている限り俺達は敗けねえ!!!」

「我々の心配など…陛下! 退路は確保しました! ゾルディスの言に従い、ここは陛下一人でも!!」

「テメエもだよ! ユウィーリ! あんた側室だろうが!! あーっ、くっそ! タウロンの奴!!」

「フロリア! リーナに少しずつ後退するように伝令だ。ラヴェランティーノが別働隊を率いて所定の位置へ向かっているはずだが、恐らくリーナはもつまい!」

「畏まりました義兄上(あにうえ)様!」

「エルフレム! タウロンはお前では倒せん!! 先に退けぇ!!」

「くっそー! 分かったよ! ラーヴァインのとこに合流する! 退却だ!!!」

「義兄上様!! 姉上が!!」

「なっ!? 伝令すら間に合わなかったか! おのれぇ! リーナ、リーナぁあー!!!」―――

 最上は水鏡を撫でる手を思わず止めた。水鏡が静かに身体を起こして最上を見上げる。

「リーナが…死んだ…?」

 血相を変えて立ち上がったのは七海であった。

「な、何だって!? あんた、記憶が…?」

「い、いや、一部の声だけだ。…きっとこれが前世の記憶……」もう動揺は無かった。

「何? 『ありがとう、楽しかったよ』? 『これ以上俺に関わっていたら危険だからさよなら』って言うの!? そんな、守るべきものを守った風な事言って!…」

「葉月、落ち着いて。聞いてくれ」

宥めるような最上の言葉を振り払って、彼女は右手を振り上げた。

「…打(ぶ)つつよ?……」

 やがて水鏡は、悔しさで顔を埋め尽くして口を開いた。その言葉には嗚咽が混じり、次第に聞き取り辛くなっていった。

「皆…私の心配してたんだ…。最上君?…鏡越しに、何考えて…た?……私…平気だよ? …映画でしょ?……喫茶店だよねえ? 行くよ! 何処だって行く! 何度でも行ってあげるよ!!………私がいる所には、貴方がいて、貴方がいる所には、必ず…必ず…私が…い…て……。貴方の背後…任されたい!…私が、貴方の背後を守りたい!!」

 握り拳をソファーの背もたれに打ち付けながら、何度も言葉を重ねる。とうとう水鏡は真下を向いたまま声を上げて泣き出した。

「どうして、分かってくれないの!? 屋上で約束したでしょう!? 私の、傷! …舐めてくれるんだよねぇ!!?……」

 最上は水鏡の背に、手を乗せた。

「…ああ…そうだよ…」最上は水鏡の背を撫でながら覚悟を改めた。「俺達は一心同体…。前も左右も俺が見る。…だから葉月……後ろは任せたぞ?」

 その後、下を向いたまま何度も縦に首を振る水鏡を、最上は優しい気持ちで見ていた。