ナベちゃんの徒然草 -9ページ目

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

人生に運とツキというものは、確かにある。

しかし、運もツキも棚ぼた式に落ちてくるものではない。

 

安岡正篤師は、「永久の計は一念の微にあり」と仰っているが、これは「人生はかすかな一念の積み重ねによって決まる。」という意味だ。

 

松下幸之助氏は20歳の時、19歳のむめのさんと結婚した。

幸之助氏が独立したのは22歳。
 

以来、勤勉努力し大松下王国を創り上げるのだが、独立当時は日々の食費にも事欠き、夫人は密かに質屋通いをした。

そんな若き日を、むめの夫人はこう語っている。

「苦労と難儀とは、私は別のものだと思っています。〝苦労〟と言うのは、心の持ちようで感じるものだと思うのです。

物がない、お金がないというのが苦労でといわれておりますが、私はこれは〝難儀〟だと解しています。

常に希望を持っていましたから、私は苦労という感じは少しも持たなかったのです。

難儀するのは自分の働きが足りないからだと思っていたフシもありました。」

難儀を苦労と受け止めない。 若き日のむめの夫人は既に、一念の大事さ感得していたことが伺える。

 

     

新潮社を創業した佐藤義亮氏に、浅草で商いを手広く営む知人があった。

あの時、その人の店が全焼した。

翌日佐藤氏が見舞いに駆け付けると、なんと知人は酒盛りをして騒いでいるではないか。

気が触れたか、と呆れる佐藤氏に、知人は朗らかに言った。

「自棄(やけ)になってこんな真似をしているのではないから、心配しないでください。

私は毎日毎日の出来事はみな試験だ、天の試験だと覚悟しているので、何があっても不平不満は起こさないことに決めています。

このたびはご覧のような丸焼けで、一つ間違えば乞食になるところです。

しかしこれが試験だと思うと、元気が体中から湧いてきます。

この大きな試験にパスする決心で前祝いをやっているのです。
あなたも是非一緒に飲んでください。」

この凄まじい面貌は男を惚れさせずにはいない、と佐藤氏は言っている。  

 

知人は間もなく、以前に勝る勢いで店を盛り返したという。

最後に、つい先日大和ハウス工業の樋口武男会長から伺った話を付記する。

     

「人の道を守らない人間、親を大事にしない人間、恩ある人に砂をかける人間に運はついてこない。」

人生の真理はシンプルである。

 

      ※『小さな人生論5』(致知出版社・刊)より、抜粋・編集にて

 


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今日は、中高年映画ファンには懐かしい、フランスの巨匠

 ルネ・クレマン 監督
  René Clément

 
の命日・没後30週年にあたります。

 

      

 

クレマン監督は、1913年のボルドー生まれ。

 

少年時代から映画が大好きだった彼は、学生時代はパリの美術学校で建築を学びながら18歳の時に短編のアバンギャルド(前衛芸術)映画を製作しています。

 

陸軍の映画班に所属し記録映画の製作に携わり、除隊後はカメラマン兼助監督として映画界入りするとアニメーションや記録映画を手掛けました。

そんな彼の名を一躍世界に広めたのは、第二次世界大戦末期の1944年、フランスの軍事活動委員会が彼に撮影を委託しレジスタンスの活動を描いたドキュメンタリー作品『鉄路の闘い』が、1946年に開催された第1回カンヌ国際映画祭においてグランプリと監督賞を受賞したこと。

 

1955年には業界人から評価の高い『居酒屋』、そして1959年にはアラン・ドロンの出世作となった『太陽がいっぱい』など傑作を連発。

しかし当時のフランスではヌーベルバーグ(※若い監督による革新的な撮影手法)旋風が吹き荒れており、以後彼は商業映画の監督という位置づけに。

 

アラン・ドロンを再び起用した『危険がいっぱい』(1964年)や 『パリは燃えているか』(1966年)を撮り終えると、今度は『雨の訪問者』(1969年)など、サスペンス・戦争・スリラーとあらゆる分野で秀作を撮りました。

 

1975年公開の『危険なめぐり逢い』を最後にメガホンを置きましたが、なぜか1984年に公開された武田鉄矢さん主演の邦画『ヨーロッパ特急』に出演したクレマン監督が83歳の誕生日を翌日に控えて天に召されたのは、1996年3月17日。

 

数はそれほど多くないものの、いずれも良質だった同監督の作品の中で個人的に最も印象に残っているのは、『禁じられた遊び』(1952年)。

 

    

 

第二次大戦中、小さな女の子が出会った男の子とともに〝お墓ごっこ〟という遊びに熱中する、実に悲しいストーリー。

葬儀屋を始めて以降は、ナルシソ・イエペスのギターの音色と共に一層この映画の切なさが心に沁みます。

実はこの曲、当初この作品の音楽はオーケストラ演奏の予定だったものの、映画製作に金を使い過ぎたために予算不足からギター独奏になったのだそうな。😰

まさに〝ケガの功名〟?

それではその懐かしい 『愛のロマンス』 ()を聴きつつ、フランスの生んだ名監督のご冥福を祈りたいと思います。🙏

 

  


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今から141年前の今日・1885(明治18)年3月16日、『時事新報』という新聞に

 

 脱 亜 論

 

と銘打たれた、字数2,200・400字詰原稿用紙5枚半分の社説が掲載されました。

 

     

当日は無署名だったものの、後日『続福澤全集』に収録されたことで、執筆者が慶應義塾の創始者・福澤諭吉先生であることが判明したこの主張は、現在日本の隣国との関係を予見したかのような内容であり、私は大いに頷けるものだと思います。

時事新報自体、福澤先生が1882(明治15)年に創刊した新聞。

 

元々慶應義塾は1881(明治14)年から朝鮮人の留学生を受け入れており、福澤先生は彼らを通して朝鮮への理解を深めておられました。

そして朝鮮への文化的誘導の必要性を感じ、来日した朝鮮使節の依頼に応じて慶応義塾の門下生数名を紹介し、新聞を発行させるべく現地に派遣。

しかし一旦は認められた発行が守旧派の巻き返しにより頓挫し、また清国からの圧力により一人が帰国させられる事態に。

また朝鮮の内乱により独立党の幹部やその家族が残忍な処刑によって殺害されるに至り、福澤先生は朝鮮および清国に対し大きな絶望感を抱いた中、この小論文が書かれたものと推察できます。

 

        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

その『脱亜論』を以下に現代語訳・抜粋にてご紹介致します。

 
       ◆   ◆   ◆   ◆


世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、至るところ、草も木もこの風になびかないことはない。

 

 (中 略)

 

近代西洋文明が日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。


国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老害の幕府というものがあり、これは如何ともし難かった。 


ここにおいて、我が日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、幸いにも神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し新政府を樹立した。
 

幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。


なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。

 

だからといって、文明を防いでその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。


なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。 

 

官・民の区別なく、国中が一切万事にわたって西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。


アジア全域の中にあって一つの新機軸を確立し主義とするのは、ただ脱亜の二字にあるのみである。


日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し西洋の文明に移っている。


しかし不幸なのは、支那と朝鮮という2つの隣国があることである。


この2国の人民も古来よりアジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、我が日本国民と異ならない。


だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗の中にありながら遺伝した教育に違いがあるためか、日・支・韓の三国を比較すると支那・韓国は日本よりかなり近いのである。


この二国人たちは、自分の身の上についても自国に関しても、改革や進歩の道を知らない。


交通便利な世の中にあっては文明の進化を見聞きしないわけではないが、その見聞は心を動かすことにならず、古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔と同じだ。

 

現在の急激な文明発達の時代に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。


そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たないようだ。


筆者からこの2国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあって、とても独立を維持する道はない。

 

 (中 略)

 

「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助し合う喩えであるが、今の支那・朝鮮は我が日本のために髪一本ほどの役にも立たない。


のみならず、西洋文明人の眼から見れば三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で我が日本を判断するということも有り得るのだ。


例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で法律が信頼できなければ、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑うだろう。


支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。


支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。


事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。


(中 略)


その影響が現実に表れ、間接的に我が国外交上の障害となっていることは少なくなく、日本国の一大不幸というべきである。


それ故現在の戦略を考えるに、我が国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのだ。


むしろその仲間から脱出し、西洋の文明国と進退を共にし、支那・朝鮮に対する接し方も隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人が彼らに接するように処置すべきである。


悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。

筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。 

 

        ◆   ◆   ◆   ◆


時代の相違や福澤先生の当時の感情が移入しているため、一部現代と馴染まない表現はありますが、隣国に対して日本が取るべきスタンスを誠に鋭くかつ的確に見抜かれていると思います。

脱亜の亜とは、アジア全ての国ではなく、支那・朝鮮の〝特亜〟を指す・・・そう考えれば、全く違和感がありません。

よく「お隣り同志なんだから、仲良くすべき」と仰る方がいらっしゃいますが、全ての人が隣人と仲良くしているのでしょうか?


またそうしなければ、日常生活で何か支障があるのでしょうか?


いや更に言うなら、隣同士仲が良い国なんてあるのでしょうか?

もしあるなら、なぜ国境があるのか。

私はお隣さんであっても理解し合えなければ、個人であれ国家であれ、交流を絶っても構わないと思います。

日本で起業して儲けたくせに日本人をバカにする支那人や、東日本大震災発生後のサッカー試合で非常識な垂れ幕を出す朝鮮人とは、特に。(↓)

   

   

そしてたとえ距離が遠くても、親日国をもっと大切にすることが外交上有益だと思うのですが・・・皆さんはどうお考えでしょうか?


 

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皆さんは、フランス・ドイツ・イタリアなどに囲まれた国、

 

  スイス連邦

 Swiss Confederation

 

について、どんな印象をお持ちでしょうか?

 ◇ アルプスやレマン湖など、観光名所が多い。
 ◇ 永世中立国
 ◇ 銀行の守秘義務が徹底している。
 ◇ ウィリアム・テルを生んだ国

が主なところ?

それに人口が800万人余の小国なのに、歴史時背景から公用語がドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語と4つもあることも、特徴的。

更には、国連のヨーロッパ本部をはじめ7つもの国連機関がジュネーブに置かれ、それに伴って各国の交渉団を含む250近い代表部も同地にあり、約1,500人のスイス人が国連職員として働いている、いわば国連御用達の国であるとも言えましょうか。

ところが、そのスイス・・・今からちょうど40年前の今日・1986年3月16日に国連加盟を問う国民投票を実施し、76.6%という圧倒的な票差で非加盟を決議したことが。😧

 

かつて国際連盟には加盟していたスイスでしたが、国際連合に関しては戦勝大国によるクラブやサロンという見方をし、事態を静観すべく1945年6月の国連発足時には加盟を見送りました。

そして他国が続々と加盟する中で40年前の国民投票に至ったわけですが、結果は大差で加盟反対が国民に支持されたのです。

ちょっと日本人には理解し難い結果ですが、これには同国の掲げた〝絶対中立〟が大戦に巻き込まれなかった・・・という概念・思想が国民に深く浸透していたからだといわれています。

しかしその3年後にベルリンの壁が崩壊し従来の東西冷戦の構図が変わったことと、20世紀末にスイスが第二次世界大戦中にユダヤ人の入国を拒否したばかりか直接彼らをナチスに引き渡し、ナチの資産を数百万フランも銀行に預けられたままであることが公表されたことで、中立に対する信念が崩れてしまいます。

その結果、2002年の第2回国民投票により、スイスは190番目の国連加盟国となりました。

※現在国連に非加盟なのは、台湾・バチカン市国など数ヶ国。

ただその選挙結果は、賛成54%という僅差でしたが・・・。

とは言え現在も同国が永世中立国であることには変わりません。

しかしそれを維持するために国民皆兵を国是とし徴兵制を採用。
20~30歳の男子には兵役の義務を課しています。

(※女性は任意)

 

現在スイス国軍は約4,000人の職業軍人と約21万人の予備役兵を保有し、国連平和維持活動(PKO)には積極的に参加しています。(※ただし武力行使ではなく人道支援のみ。)

 

軍事大国に囲まれたスイスは、軍事基地が岩盤をくり抜いた地下に建設され、侵略に備えて国境地域の橋やトンネルには速やかに国境を封鎖すべく解体用の爆薬が設置されており、常に緊張状態を維持しているといいます。

 

翻って、四方を海に囲まれ歴史的に殆ど他国から侵略されたことのない日本は、どうか。

未だに「平和なのは、憲法9条があるから」などと大真面目に口にする知識人や、それをノーベル平和賞にエントリーしようとする左翼勢力がいます。

この非現実的な言動をスイス国民が見聞きしたら・・・きっと目を丸くするか笑い飛ばすでしょうネ。

領土と国民の生命を他国から護るには、それなりの軍備と覚悟が要ることを、彼らは知っていますから。

「日本も、スイスのような永世中立国になるべきだ」

などと主張する野党議員がいますが、彼らはスイスの実情を知っているのでしょうか?

平和は、口先だけで維持できるものではない・・・日本人は、それを永世中立国・スイスから学ぶべきでしょう。



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「最高級の自動車といえば、何?」・・・そう問われたら、皆さんはどんなブランドをイメージするでしょうか?

私なら、迷わずこのメーカー名をあげます。

 

 ロールス・ロイス
     Rolls-Royce


イギリスが誇るこの自動車・重工業メーカーが設立されたのが、今からちょうど120年前の今日・1906年3月15日のことでした。

 

社名は、2人の創業者チャールズ・スチュアート・ロールズ(1877-1910)とフレデリック・ヘンリー・ロイス(1863-1933)に因んで命名されたもの。

    

              Charles Stewart Rolls     Sir Frederick Henry Royce


ケンブリッジ大学在学中からモータースポーツに関わりレースにも出場していた、いわゆる〝カーキチ〟だったロールズと、9歳から苦学を重ねて電気技術者となったロイス。


この対照的な2人が出会うきっかけになったのは、1904年にロイスが製作した 〝ロイス10HP〟 という小型車にロールズが試乗したことでした。

 

その性能の良さに惚れ込んだロールズがロイスに販売を一手に引き受けたいと申し出、それをロイスが了承したことで同社が誕生することに。


会社設立翌年に発売された6気筒の新型車〝シルバーゴースト〟が高い評価を受け、ロールス・ロイスの名は世界に知れ渡ることとなりました。

 

「価格を無視しても、品質は存続する 」 というロイスの言葉通り、細かいパーツにまで拘り抜いた自動車は非常に高価だったものの、 〝世界最高の自動車〟と銘打って売り出されたことで逆に世界各国の王侯貴族・富豪に愛され、日本でも大正天皇の御料車に。

   
 
      御料車となったシルバーゴースト(同型車)


既にこの時点で世界最高級ブランドとして認知されるように。


1台で4~5千万円、特注のオプションをつければ1億円前後もする自動車は、まさに〝走る一戸建て〟。


クラシックな風格あるフォルムと、ブラックとシルバーに輝くエンブレム、それにボンネットの先端に鎮座ましますマスコット〝スピリット・オブ・エクスタシー〟を一目見れば、ロールスロイスと分かります。


今でも路上でこのクルマを見かけると、万が一にもぶつけたくない私は本能的に車間を開けてしまいます。😅

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

1931年にベントレーを買収し傘下に収めた同社でしたが、1939年に第二次世界大戦が勃発すると自動車生産を休止し、航空機エンジン製作など軍需産業に特化。


しかし終戦後1960年代に開発したジェットエンジン〝RB211〟 にトラブルが続出。

その開発費が重くのしかかり、同社は1971年2月4日に経営破綻してしまったのです。

 

しかし国有化され、ブランドだけは守られました。

 

1973年に分社化され自動車部門『ロールス・ロイス・モータース』はイギリス大手自動車メーカー・ヴィッカーズ社に売却され、その後独フォルクスワーゲン社に売却された後、現在は(ベントレーを除き)BMW社(が設立した別会社)がロールス・ロイスのブランドを残して生産を続けているのです。

 

BMWが製造したRR・・・ちょっと複雑な気分ですネ。😔

 

ジェットエンジン製造などの工業部門は、その後サッチャー政権下で再び民営化され、現在は『ロールス・ロイス ホールディングス』社として現在も存続しています。

 

企業形態は一世紀余りの間に大分変遷してきましたが、ブランドは大切に維持され続けているんですネ。

 

決して路上では近づきたくないロールスロイス車ですが、一度でいいから運転手付きで最新型ファントムのリムジンに乗って、ゆったりとバカラのグラスに注いだスコッチを楽しむ・・・これが私のささやかな夢のひとつです。😊

 


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皆さんも、日本史の授業で習ったことをご記憶でしょう。

 

 五箇条の御誓文

明治天皇がこれを新政府の基本指針として天地神明に誓約する形で公卿・諸侯に示したのが、今から158年前の今日・1868(慶應4)年3月14日のことでした。

        

明治政府は、発足直後から国内をまとめるための国是を模索していました。

1868年1月に参与・由利公正(福井藩)が 『議事之体大意』 五箇条を起案し、これを参与・福岡孝弟が修正したものを、3月に入って木戸孝允(長州藩)が加筆し議定兼副総裁の岩倉具視に提出。

これが明治天皇の裁可を受け、3月13日に天皇の書道指南役・有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫され、翌日京都御所の正殿・紫宸殿にしつらえられた祭壇前で三条実美が読み上げる形で示されました。

 

あらためてその内容をご紹介しますと、

 

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
(広く会議を開いて、政治は人々の意見によって行うべし)
 
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

(階級に関係なく皆が心を1つにして、国を治めるべし)
 

一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ
 倦(う)マサラシメン事ヲ要ス

(身分に関わらず誰もが志を全うし、その意思を達成する必要

あり)
 

一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

(過去の習慣を捨て、国際社会のルールに沿って行動すべし)
 

一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

(新しい知識を世界から学び、天皇が国を収める基礎を築く

べし)

 

   
                   有栖川宮幟仁親王が揮毫した原本

 

原本をご覧いただくと分かりますが、この五箇条の後に

「我が国は未曾有の変革を為そうとしており、朕(天皇)自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てん。 
臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。」

という意味合いの勅語が添えられています。
 

この御誓文からは、明治天皇始め新政府がこれからの国難を乗り切るために国民の心をひとつにまとめようと苦心惨憺したことが読み取れます。

また敗戦後の1946(昭和21)年1月1日に発せられた昭和天皇の人間宣言において、
この御誓文の全文が引用されていることからも、国難に際して人心をまとめるための名文である・・・と言えましょう。

以前拙ブログにてご紹介した 『教育勅語』(↓) 同様、全文を暗記する必要はなくとも、日本国民は今一度原点に立ち返ってその精神を我が身に落とし込む必要があるのではないでしょうか?

 

 

 
今再び、日本は国難の時期に入っていると思うが故に・・・。うー

 

 

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3月14日は、ホワイト・デー。

 

男性諸氏にとっては、少々頭・・・より、懐が痛い日かもしれませんネ。

 

それはそれとして、今日はもうひとつの記念日でもあるのですが

、お分かりになるでしょうか?

 

おそらく〝ゆとり教育世代〟には分からない、というのがヒントといえばヒントなんですが・・・正解はこちら。

 

 3.14159265358979323846・・・

 

そう、3.14にかけて、

 

円周率の日

 

なんですって。

 

円周率とは、円周の長さを直径の長さで割った数字。 

 

〝π〟という記号で表記されますが、これはギリシア語で円周という意味の、

 

  περιφε´ρεια ” (ペリフェレイア)

 

という単語の頭文字を取ったものだそうです。

 

紀元前2000年には既に近似値が求められていたそうで、我が国でも和算の大家・関孝和(↓)が正131,072角形(!)を使って少数第11位まで算出したとか。

 

昔の人々の知恵って、淒いですょネ。 

また円周率は無理数(※分子・分母ともに整数である分数として表すことのできない実数)であることが1761年に証明され、不規則な数字が無限に続くことが知られています。

 

以前、事業仕分けで話題となったスーパーコンピューターの開発では、よくこの円周率計算が性能の目安にされます。

 

最新の記録は300兆桁超(!)だそうですが、一体その計算にどれくらいの費用と時間がかかるやら・・・。

 

この円周率の歴史に関して興味のある方には、数学者・上野 健爾氏が(比較的)分かりやすく解説してくれる

 

 『円周率が歩んだ道』 (岩波現代全書・刊)


        

 

のご一読をオススメします。

ただし読みこなすには、高校程度の数学の知識が必要ですが。

 

また〝円周率の記憶〟も時々話題になりますょネ。

 

現在の世界最高記録は、日本の原口 證(あきら)さん が2010年6月16日に丸1日かけて達成した101,031桁。
(※但し、ギネスブックには未登録)

なんと64歳で自らの記録10万桁を更新したというのですから、恐れ入ります。

人間の脳の無限の可能性を示唆してくれたこの記録に挑戦しよう

という方には、こんな本がお役に立つかと。

 

  『π』 (暗黒通信団・刊)

         

 

これ、100万桁の円周率がビッシリと印刷されているんです。
我と思わん方はこの本を手に入れて暗記を開始しましょう!

まぁ記憶せずとも、この本のページを布団の中でめくれば、アッと言う間に眠れるかもしれません

そんなことを言ってる私ですが、この〝数字羅列本〟は買ってませんけど。

 

さて最後に、ちゃんと円周率≒3.14と習った昭和世代の皆さんに、ひとつの問題を差し上げましょう。

 

【 問 題 】

 

  円周率が3より大きいことを説明しなさい。

 

誠にシンプルな問題ですが、解けますか?

実はこれ、某私立中学の入試問題・・・つまり小学6年程度のレベル。

 

下の図をヒントに、挑戦してみてください。

 

      円周率

 

・・・あっ、正解は私に聞かないでくださいネ。 😅

 

 

 

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カクテル光線に照らされて一面緑鮮やかに輝くグラウンド・・・今では全国そこかしこで目にする人工芝。

これを日本の野球場で初めて敷設したのは、

 後楽園球場

その完成・お披露目が、今からちょうど50年前の今日・1976(昭和51)年3月13日のことでした。

 

 

   

人工芝の発祥はアメリカ。

1965年に世界初の屋根付き野球場・アストロドームが誕生しましたが、当初は透明性の高い屋根をつけて天然芝を採用していました。

しかし芝が枯れてしまったため、人工芝を敷設したのです。

この人工芝は〝アストロターフ〟と名付けられ、天然芝のように痛まず維持コストが安いことからアメリカンフットボールと兼用のスタジアムを中心に続々と導入されました。

日本では1969年に呉羽化学(現・クレハ)が開発に成功し、アメリカの人工芝ブームに乗って後楽園球場が導入。

以後新設の横浜スタジアム(1978年)、西武ライオンズ球場(1979年)、また既存の阪急西宮球場(1978年)、平和台球場(1979年)、神宮球場(1980年)等々、急激に人工芝への張替が進みました。

 

1977年に大学に入り、野球をやっていた私は何回か巨人戦を観に後楽園球場へ足を運び、綺麗な人工芝を目にして、(一度は人工芝グラウンドでプレーしてみたい!) と願ったもの。

そして後楽園球場ではなかったものの、大学リーグ対抗戦の選抜チームに選ばれ、完成したばかりの横浜スタジアムのマウンドに立った時は、感動しました。

 

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-横スタ

ただ当時は人工芝専用のスパイクなんてありませんでしたから、いざプレーしてみると見た目の美しさとは裏腹に普段と違って何となく滑りやすくて思い切ったプレーが出来なかった記憶があります。

 

皆さんは天然芝と人工芝、どちらがお好きですか?
私はプレーするなら天然芝、観戦は人工芝・・・かナ。

しかしこの人工芝、日本で急速に普及していった1980年代を境にアメリカでは逆に天然芝への回帰が始まりました。

その原因は、当時の人工芝が薄く下地であるコンクリートの衝撃が選手たちの足腰の負担となりケガが多くなったこと。


(元ヤンキースに在籍した松井選手も、日本に戻ってプレーする気はあるか? と問われて、「ヒザの悪い自分は、人工芝の多い日本でプレーできない」 と答えたことがありましたし・・・。)

 

また原点回帰が叫ばれたこともあって徐々に天然芝に張替をする球場が増え、現在メジャーリーグの本拠地で人工芝を採用しているのは、僅か5ヶ所だとか。

しかし高温多湿かつ雨の多い日本ではそうも行かず、12球団の本拠地の内10ヶ所(内エスコン・フィールドと甲子園は一部)が人工芝を採用しています。

ただそこは技術立国の日本・・・人工芝の改良が進み、ロングパイルの限りなく天然芝に近い素材を開発。

 

現在では野球だけでなく、サッカーやラグビー、グランド・ホッケーなども人工芝での試合が行われていますが、以前ちょっと心配な報道が。

それはアメリカで人工芝の充填剤に使われている(廃タイヤが原料の)ゴムチップに発がん性物質が含まれており、それが経年劣化して粉塵となって空中に飛散し、選手がそれを吸い込んで肺ガンになる危険性があるというもの。


もしそれが本当だとしたら、改良して張り替えるなり天然芝に切り替えるなりと、大変なことになりそう。😰

近年ではその疑惑は否定されているようですが、果たして真実はいかに?

 

 

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皆さんは、子供さんから「雪って、なぁに?」と聞かれたら、どう答えますか?

簡単そうで、意外と難しいですょネ。 

答えとしては、〝水が氷の結晶になったもの〟だそうな。 

そしてその結晶を、皆さんは実際に顕微鏡でご覧になったことがありますか?

私は小学校高学年の頃、雪の降り積もった校庭に出て理科室から持ち出した顕微鏡で見たことが・・・。

どんな形だったか詳細に記憶はありませんが、授業で教えてもらった通り見事な六角形だったことだけは憶えています。

     

形は様々ですが、(一部例外はあるものの)見事な六角形を作る自然の力には、畏敬の念を禁じ得ませんが・・・実は、今からちょうど90年前の今日、世界で初めて人工雪の結晶化に成功した日本人科学者がいます。 その人の名は、

 中谷 宇吉郎 博士

 

 

     

中谷博士は1900(明治33)年に石川県の現・加賀市に生まれました。

呉服商を営んでいた父親はショーウィンドウを作るなど中々先進的なアイデアマンだったそうで、息子を九谷焼の陶工にしようと考えていたとか。

しかし幸か不幸かその父親が急逝したことで、宇吉郎少年の運命は大きく変わります。

旧制小松中学から第四高等学校、そして東京帝国大学理学部物理学科へと進学した秀才の彼は、東大在学中に物理学者・作家であった寺田虎彦と出会い指導を受けたことで実験物理学の道へと進むことに。

大学卒業後も理化学研究所で寺田の助手となった中谷氏は、科学者としての姿勢や生き方、飽くなき好奇心など多くを学んだといいます。

 

2年間のロンドン留学から帰国して1930年に北海道帝国大学の助教授に就任し、翌年に京手と帝国大学で理学博士号を受けた彼が雪の結晶と出会ったのは、翌1932年の冬。

 

かねてより雪の結晶に興味があった彼は、降ってきた雪をガラス板で受け、それを顕微鏡で覗いたのです。

微妙に輝く透明な結晶の美しさに深く感動したことが、彼の結晶研究の原点に。

同じように顕微鏡を覗いても、ただ「キレイだなァ」と感心するだけだった凡人の私と、それを研究に結び付けた秀才の違いは大きかったようで・・・。😅

 

北大に-50℃まで下げられる常時低温実験室を開設した中谷教授は、その室内で研究に没頭。

そして遂に、二・二六事件が勃発して1ヶ月も経たない1936(昭和11)年3月12日に、世界初の人工雪生成に成功したのです。

 

 
     常時低温実験室        世界初の人工雪結晶   

 

その後肝臓ジストマに罹患したり、大東亜戦争の影響で研究の中断を余儀なくされながらも、着氷防止など低温科学分野で多くの功績を残し勲一等に叙せられた中谷博士は、その一方で科学映画の製作・監修に携わったり、多くの随筆や書籍を残して青少年が科学に関心を持つよう努力を重ねました。

その著書の中で、私がオススメするのは、こちら。


 『雪』 (岩波文庫・刊)

 

           

 

そのものズバリのタイトルですが、同書は1938年に岩波新書から刊行されたものを1994年に同文庫が再版したもの。

天然雪の研究から人工雪生成に成功するまでの過程から、研究に打ち込む中谷博士の思い入れが伝わってきます。

(自然)科学に興味のあるお子さんには、是非読んでもらいたい一冊。

冒頭の雪の定義・・・実は、同著から抜粋したんです。 

更に詳しく解説すれば、

〝昇華作用によって水蒸気が直接氷になったものであり、空気中に生じたその氷が地上に降りてきたもの〟

よく分からない方、あるいはもっと詳しく雪の生成メカニズムを知りたい方は、この本をじっくりお読みください。

1962(昭和37)年に61歳で亡くなった中谷博士の存在を

もっと日本人に知ってもらいたい・・・そんなことを思いつつ、〝雪博士〟のご冥福をお祈り致します。🙏

 

 

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