不死身の男 | War Machineのブログ
船坂弘は23才に除隊を目前にぺリリュー島、アンガウル島に降り立ちます。1944年昭和19年3月のことでした。
同年の9月11日にアメリカ軍による絨毯爆撃が5日間続きます。

このとき、島を守っていた守備隊の日本軍は、わずか1400名の中隊です。
小さな平たい島です。内陸部に誘い込んでの戦いはできません。日本軍は、はじめ上陸しようとする米軍を水際作戦で迎え撃ちます。
このとき舩坂軍曹は、擲弾筒および臼砲で米兵を200人以上殺傷します。

そして上陸を許し、ゲリラ戦に持ち込みます。

戦い三日目、ついに船坂軍曹は左大腿部に重傷を受けます。敵陣のど真ん中でゲリラ戦を繰り広げていた彼はすぐに助け出されず、戦火の中数時間放置されやっとの思いで軍医が到着します。

ですが傷を見た軍医はあまりの傷口の深さと大きさにもはやこれまでと、舩坂軍曹に自決用の手榴弾を手渡して去ってしまう。ですが彼は、日章旗を包帯代わりに傷口を塞ぎ、匍匐全身で張って陣地まで自力で戻ります。
この船坂軍曹、並みの体力気力でなく、翌日には歩けるまでに回復しました。

彼は戦場で戦っては重傷を負い、動けないような体になりながらも翌日には傷が治り体力も回復して戦場で勇敢に戦った、というのを繰り返していたようです。

舩坂軍曹は、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けます。

ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒した。

ある日は、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ、突き殺した。まさに鬼神の如き奮戦です。

戦友は船坂軍曹は「不死身の分隊長」とよびました。

だが補給も食料もすでになかったので満足に治療も受けられませんでした。

彼の傷は化膿して蛆に食われていました。「蛆に食われるくらいなら!」と自決を決意します。そして手にした手榴弾のピンをはずした瞬間、手榴弾は爆発しませんでした。死ねなかったことに絶望にしていましたが、一矢報いてやる!と米軍司令部に単身乗り込みます。

米軍司令部基地指揮所手前20mのあたりで身を潜め指揮官が集まったところで手榴弾を抱えて特攻しようとしていました。

ジープで指揮官が集まってきました。そして船坂軍曹は特攻しようとします。ですがアメリカ兵に見つかってしまい首を撃たれて昏睡してしまいます。

米兵も米軍軍医も死んだと判断し、野戦病院に遺体を運びました。このとき米軍士官がこう語りました。
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」

それから三日ほどして、船坂軍曹は死体置き場にて息を吹き返し、むっくりと起き上がります。そこにいた米兵はあまりの恐怖に凍りつきました。不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化します。
米軍は、舩坂の無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈った。

一命を取り留めた船坂軍曹は治療を受け、歩けるまでになりました。ですが彼の不屈の闘志は消えませんでした。重傷者の病棟であった彼は警備が甘いのを利用し、脱走を図ります。そして日本兵の遺体から火薬だけ抜き取ります。それを導火線にして火薬庫に火をつけます。

火薬庫は大爆発を起こし、米軍司令部は大混乱になります。ちなみにアメリカ側では犯人不明の迷宮入りになっています。

それから三日後、またもや脱走します。ですが今回はうまくいかずつかまってしまいます。このとき捕まえた男が収容所に連れ戻し殺そうとします。ですが彼が聞いたのは銃声ではなくたどたどしい日本語でした。「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。アナタハ神ノ子デス。アナタノ生キルコト、死ヌコト、神様ノ手ニ委ネラレテイマス」といったそうです。

日本語を話していた方はF.V.CRENSHAWという方でした。彼は執拗にさらに大男は、舩坂の無謀な行動を戒め、「生きる希望を捨てるな」「死に急ぐな」と説いたそうです。

そして終戦を迎えます。帰路に着いた彼を待っていたのは彼のお墓でした。彼は日本側では戦士扱いになっていてそれは家族にもつたえられていた。