言わずと知れた福沢諭吉の「学問のすすめ」にある有名な冒頭の一節である。
この一節に「限れば」、その意味するところは良くご存知のように「人間はすべて平等であって、身分の上下、貴賎、家柄、職業などで差別されるべきではない」という、人間は生まれながらにして平等であるので差別はいけない。ということを言ってはいる。
しかし、この後の文章では、「実は、それなのに世の中は平等ではない。」と断定し、身分の違いもあるし、職業によっても差別されたり、もっと言えば金持ちかそうでないか、成功者かそうでないか、などさまざまな「違い」での差別が存在する。
この後に福沢諭吉は、これらの差別というか「違い」が何によって生み出されるか、ということに関して、
「これらの差は、生まれつきのものではなく、学問をしたか、しなかったか、による」
と言いたかったらしく、だからこその「学問のすすめ」なのだそう・・・
どうでしょう?
なんかなぁ~・・・・と、「人間は生来、平等である」という『理想論』から始まって、でも現実は・・・という『現実論』になったあげくに、その違いの原因を「学問をしたか、しなかったか」に求める、って、何か知識や身分による「差別」を肯定しているかのように感じてしまいます。
その上にたって、差別される側ではなくて、君達(慶応義塾の学生?)はもっと学問をして「差別する側」になるんだよ、と言っているようなものではないか、と思ってしまいます。
おりしも、先般の池袋の「高齢な」ある社会的な身分のある方の暴走事故に端を発して、ありもしない「上級国民」とか「下級市民」とかの言葉が語られるようになりました。
「ありもしない」と書きましたが、もちろんそれは「制度としては」とか「確固とした身分、階級としては」ありもしない、ということであって、我々庶民は、日本においても画然としてなんらかの「差」があることを感じているからこそ、こういった言葉が出てきたんだろう、と思うわけです。
上の福沢諭吉の言葉に立ち返ってみれば、この方は「学問をし」「それなりの身分になり」(なにせ高級官僚ですから)、今の世の中では完全に「勝ち組」「成功者」の一人でしょう。
だからと言って、この人のやってきた「学問」がこれらの差別をなくす方向に働いて、「理想論」である万民平等の方向へ人々を導く、という話ではないわけです。
こうやって見ると、世の中になぜ「差別」があるのか、というのは「学問の有無」によるのではない。
確かに「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造ら」ないかもしれませんが、人の上に人をつくるのも、人の下に人をつくるのも「人間」でしょう。
特に、「いじめ」にみられるように、人はともすると自分以外の誰かを「自分より下」に作りたがる傾向があります。
それは身分や階級の高い人間よりも、ともするとそれらが低いと思われる人に顕著に見られる傾向でもあります。
つまりは、誰しも「相対的に」自分は最下層ではない、という状況を作り出す「動機」をもっていて、それこそがこういった「差別」を生み出しているんでしょう。
そういった意味で、「ありもしない」上級国民や下級市民というのは、これからも厳然として「現実的な意味で」存在し続けるのかな、と思います。
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