一昨日の、超久しぶりのテニスで、体中の筋肉が悲鳴を上げ、あらゆる関節がギシギシ言っているリンロンでございます。 皆様いかがお過ごしでしょうか。
テニスをやっている時は、「まだまだ負けんデー」と張り切ってやり、それなりに若い連中と渡り合ったのですが、さすがに後のことまで考えていませんでした^^;
今日は少しはましになりましたが、昨日は夜になると立つのもつらいほどの筋肉痛だし、朝起きると手足の関節がバキバキと・・・・
う~ん、これこそ、「歳」という奴ですね(悲)
さて、今日は不動産屋の使う電子錠(これがあれば、マーケットに出ている家のどこでもアクセスできる鍵)が新しくなる、ということで午前中に交換に行っていました。
交換を申請してからプログラムが終わって手渡されるまで約1時間。 回りの人は大部分がスマホなんぞを見てヒマをつぶしていましたが、私は本を一冊持って行って、この待ち時間の間に読んでいました。
で、その感想というか・・・読んでいて感じたこと。 ちょっと硬い話で長くなるかもしれませんので、音楽以外関心のない方はスルーしちゃってください。
<閑話休題>
「信念」というと、だいたいが「良い」文脈で使われることが多いですね。「信念がある人」「強い信念を持つ」とか「確固たる信念に基づく行動」とか。
でも、この「いい意味」での信念と、たとえば「思い込み」「思い上がり」「独尊」あるいは「自信過剰」などの「悪い意味」の言葉で表される人の考え方や価値観などの境界はあまり定かではありません。
また、その時代時代にある「常識」というもの、あるいは一般に広く受け入れられている「価値観」というものも、これ自体に「正邪」があるわけでもありません。
今、人間という「種」は、本当の意味で危機的状況にあります。
これは良く宗教的な文脈の中で、「この世はこのままでは大変なことになる」から「xxをしなければならない」という言い方が良くされるので、新興宗教などにかなりのネガティブイメージを持つ日本人には特に受け入れがたい言い方かもしれません。
しかしながら、先日も少し書いたように、地球という生命体(あるいは生命維持サイクル)自体に人類が及ぼしつつある影響というのは、かなり致命的なレベルになっているようで、宇宙・自然の摂理による反動がいつ起きてもおかしくないレベルにあるようです。
この危機を、危機として正面から捉えることも大事ですが、それが出来てもなお、ではどうしたら良いか、という問題が残ります。
人類、あるいは「地球」そのものの危機について正面から捉えて行動を起こす、というのはあらゆる分野で行われつつあります。
ただ、病気に対する現代医療が、一般には対症療法に終始しているのに似て、この危機的状況に対する行動が、ある意味、「対症療法」的なものに限定されているのが現実です。
病気に関しては、ホリスティック医療の必要性が叫ばれているように、体を単なる「物質の集合体」として物としてみるのではなく、そこに心や精神との相互関係を考慮した医療がますます求められるようになっています。
地球と、人類の危機に関しても同じことが言え、その全体像をどれだけ明確に持つか、によって私たちが取るべき道、というのが異なってきます。
すごくまわりくどい言い方になってしまいましたが、今の地球・人類の危機的状況の根本的な部分で、じつは初めに書いた人間の「信念」というものが密接に関係してくるのです。
いえ、密接に関係してくる、という生易しいものではなくて、人間の信念そのものが、この危機的状況を作り出している、と言った方が正確でしょう。
ところが、私たちの持つこの「信念」。 現代の「常識」であったり、権威に裏付けられた「価値観」だったり、人間の精神性に(宗教を信じる、信じないに関係なく)深く埋め込まれた宗教的な「正邪」の概念というものを、私たちは疑ってみることも少ないのではないでしょうか。
「人を殺す」ことは悪いことでしょうか?
もし、「悪い」としたら、何を根拠にそう言えるのか? またもし「悪い」としたら、なぜ「戦争」が肯定されるのか?
「戦争」は肯定していないとしたら、なぜ軍備を持つのか?
「攻撃はしないが、敵が攻めてきたら防衛のため戦うのは当たり前」なのか?
「自衛のための戦い」は「戦争」ではない、として、その自衛のために「人を殺す」ことを肯定できるのか?
もし他国がなんらかの「陰謀」を画策し、放っておけば日本がその「陰謀」に巻き込まれて大損害を受ける、という場合、この「陰謀を阻止」するための武力の行使は「自衛」にあたるのか?
同性婚の問題に関して、バチカンは「すべてのキリスト教徒は、この問題にNOと言うべき」との通達を出し、
「エイズの予防と言えども、荻野式以外の避妊方法は神の摂理に反する」とコンドームの使用にさえ反対している。
また遺伝子治療に関しては
「出産前の検査で生まれてくる子供の肉体的な欠陥が明らかになった」らどうするか
「経済力を上げるために、規制を強化」すべきあるいは逆に「廃止」すべきか
「核エネルギーの利用は促進すべきか、廃棄すべきか」
これらは本の一例ですが、すべてに「人間の信念」が関わってきます。 人間として、国民として、信仰者として、親として、民族として・・・さまざまな範疇で、さまざまな信念が存在し、それを誰もが疑わず、「自分の信念は正しい」として行動する。
これらの「信念」の正体を見破る必要があるのは明らかですね。