人は、考えることを神に与えられた唯一の動物だとよく言う。
だけど、それは時に人を傷つけたり、遠回りな道を選ばせたりする。
まさに今、私は遠回りな道を選ぼうとしている。
夢があることは、何も目的や目標、将来像を持たずに生きるより
ずっと楽なことである。
それに向かって生きて学べばよいから。
でも、例えば自分の目標とする夢に対して、家族のイメージがよくなくて
家族がよいと考える新しい「夢」を追いかけるように仕向けられたらどうだろう?
自分がやりたいことが明確にあるにもかかわらず、
それとはまったく違う方向のものを目指すように仕向けられ、
なんとなく納得したような気になって、頑張ってみる自分。
そこにいつも、私は疑問を抱いてしまう。
なりたいものがある。
ただ、それになりたいだけで、私の夢は終わらない。
それになってから先の、様々なことにチャレンジしていきたいと思っている。
考えは、非常に具体的に持っている。
ビジョンは鮮明だ。
鮮明でないのは、いつになったら、それになれるのか、ということである。
その夢を追いかけることに、誰にも邪魔をされることはない、
そういうときが来るのを、ひたすら待つのか。
いい加減限界である。
気付いてしまった「奨学金制度」とか、
自分の味方になるものを見つけてしまったから。
自分のために人生を生きたい。
家族が進めてくれる進路が必ずしもマイナスではない。
むしろ、親はプラスだと思うからこそ、薦めているのはわかっている。
だけどそれは、私にとっては
「プラスが60%、マイナスが40%」
のことである。
だってそれは、自分にとって、自分の目指すところではないことに、
この20代のほとんどをささげるようなものだから。
今のこの「22歳」という時を、私にとって充実したものにしたい。
人生においても、今のこの時期というのはきっと一番輝いているべきときだと思うから。
自分のことなのに、あまり自分の意見が通じないのは、
なかなかに歯がゆい。
これに耐えて、家族の意向に従うのが私にとって幸せなのだろうか。
こんなことに悩まなければならない人間に、悩んでしまう。
神に与えられた物は、ありがたくもあり、時にそれはひどく残酷さをたたえるものなのだろう。