好きとか嫌いとか、良いとか悪いとか

好きとか嫌いとか、良いとか悪いとか

還暦手前の“普通の”オッサンが
好きとか嫌いとか
良いとか悪いとかの
独断と偏見で綴りました。

最近、テレビやネットでよく聞くこんな言葉――


「物価が高い今、政府がお金を使うと、ますます物価が上がるんじゃないか?」


この意見を聞くと、確かに一瞬「なるほど」と思ってしまうかもしれません。


でも

私はそう単純には考えていません。


実は

今の日本の物価上昇は「需要が強すぎるから起きている」“わけではなく”


原因や部門を正しく見分ければ、積極財政は物価高と“矛盾しない”のです。


この記事では、私の考えを整理しながら

「積極財政って本当に物価を押し上げるのか?」

という“誤解”を分かりやすく解説します。


今の物価高の正体は、需要ではない


まず押さえておきたいのは…


現在の日本の物価上昇のほとんどは、食料やエネルギーなど一部の品目のコスト上昇が主因だということです。


これは経済学で言うところの「コストプッシュ型インフレ」です。



言い換えれば

・原材料や輸入品の価格が上がった

・エネルギー価格が高騰した

ことが物価全体を押し上げているのです。


つまり

消費者が使いすぎて物価が上がったわけではありません。


だから

需要抑制や財政縮小で「物価を下げよう」と考えるのは、少し方向が違うと私は思います。


物価は部門ごとに違う動きをしている


物価を一つにまとめて「上がっている」と言うと誤解が生まれやすいです。


実際には

・食料・エネルギー → 上昇中

・サービスや教育・医療 → ほぼ横ばい

・投資関連や一部の耐久財 → 下落気味


と、部門ごとに動き方が違います。


私はここが重要だと思います。


「物価が上がっている=すべてのものが高くなる」と考えるから、積極財政に反対する意見が出てくるのです。


積極財政は“打つ場所”で意味が変わる


私の考えでは、「積極財政はどの分野にお金を使うか」が肝心です。


・高騰している分野(食料・エネルギー)には、補助金や負担軽減策を打つ


・低インフレ・デフレ気味の分野には、公共投資や教育・研究開発支援などで需要を作る


こう分けることで、物価上昇を抑えつつ経済を支えることができます。


つまり

「積極財政=物価を押し上げる」ではなく、「正しく使えば矛盾はない」のです。


 「積極財政=物価上昇」という批判は前提が違う


よくある批判は、需要が強すぎる状況を前提にしています。


しかし

現実の日本は、

・賃金はあまり上がっていない

・サービスや教育の物価は横ばい

・消費も力強さを欠いている

という状況です。


だから

「お金を使ったら物価が上がる」という考えは、今の日本には当てはまらないと思うのです。


積極財政はむしろ物価安定に役立つこともある


私の意見では…


積極財政は

1. 高騰している分野の負担を軽くする

2. 低成長の分野に需要を作る


という使い分けで、物価の安定と経済の底上げを両立できる可能性があります。


要は

単に「お金を使うかどうか」ではなく

「どこにどう使うか」が重要だと思います。

まとめ:

物価高の今でも積極財政は矛盾しない


結論として、私はこう考えています。


・今の物価高は需要ではなく供給側の要因が中心

・物価は部門ごとに動き方が違う

・高騰分野には負担軽減、低成長分野には積極財政で支援


だから

「積極財政=物価高」という単純な見方は誤解


つまり

物価高の状況でも、積極財政は使い方次第で矛盾せず、経済を支える手段になるのです。



僕は、

宗教というものを「信じるかどうか」ではなく、
「どう生きるか」を問うための鏡

として見ています。

 

法華経に出会い、

唱題を重ねる中で気づいたのは、
信仰とは「何かにすがること」ではなく、
宇宙と共に“歩む姿勢”そのもの

だということでした。

 

宇宙の法則は、

誰かが作ったものではなく、
すべての存在が

その一部として“働いている”法です。


僕たちはその法の中で生まれ、

息をし、思考し、選択している。


だから、

「南無妙法蓮華経」と唱えるのは、
外へ向けた叫びではなく、

自分が宇宙のリズムに還る宣言なんです。

 



かつての僕は、

「願いを叶える」ことを

目的として唱えていました。


でも今では、

唱題とは“叶えるための手段”ではなく、

“共に生きるための調律”だと感じています。


心が整えば、行動が変わり、

行動が変われば、世界が応える。


その循環の中で、

結果として願いが形になる

――それが“共力”の働きです。

 

つまり、

唱題によって宇宙の流れと自己が重なったとき、
「叶う」という出来事は、

もはや奇跡ではなく自然現象になります。

 


法華経の言葉に、こうあります。

 

「一切の衆生、皆仏性を有す」

 

それは、

「誰もが宇宙と共に響く力を持っている」

という意味だと思うんです。


仏性とは、

遠い理想ではなく、

いのちの根底にある“共鳴の能力”なんですね。


その共鳴を信じ、

日々の生活の中で育てていくこと

――それが、僕にとっての「信仰」です。

 


いま、こうして言葉を綴りながら思うのは、
宗教も哲学も科学も、

どれも“宇宙を理解しようとする試み”にすぎない

ということ。


それらを敵対させるのではなく、
むしろ融合させて、

より大きな理解の輪を描けるはずだと

信じています。

 

宇宙と共に歩むということ。


それは、

祈りながら生きることでもあり、
生きながら祈ることでもある。

 

今日という一日が、

そのまま経文の一行となり、
声にならない祈りが、

世界のどこかで誰かを照らしている

 

――そんなふうに思うと、
この世界はもう、

それだけで“ありがたい”のだと感じます。

 


南無妙法蓮華経。


この言葉は、

終わりのない始まりの音です。


宇宙と自己が呼吸を合わせ、
共に進むための「調律のことば」
でもあります。

 

今日も、

この声とともに、
静かに歩き続けます。

 

記者:
これまでお話を伺ってきて、

法華経や唱題の本質が

「宇宙と人間の共鳴」であることがよく分かりました。



そのうえで

――最後にお聞きしたいのは、

「生きること」そのものが“経”になる、

という感覚です。


それは、

どういう境地なのでしょうか。

 


僕:
それは、

「生きる」という日常の営みを、

そのまま仏の教えと見る感覚です。


僕はこれを“いのちの経”と呼んでいます。


つまり、

僕たち一人ひとりの人生が、

そのまま経文の続きなんです。

 

法華経という書物は、

釈迦が語った「宇宙の真理」を

文字にしたものですが、
その真理は文字の中に閉じこもってはいない。


むしろ、

僕たちの心と行動の中に生き続けている


だから、

生きること自体が「経を読む」ことになるんです。

 


記者:
なるほど……


たしかに、

仏典を“読む”ことが目的ではなく、
“生きる”ことで仏法を現す、

というのはとても自然な考え方ですね。

 


僕:
はい。


僕にとっての唱題も、

まさにその「生きる経」を響かせる行為なんです。


南無妙法蓮華経

――この声は、外に向かって発しているようで、
本当は“内なる宇宙”に響かせている。

 

声が心を整え、

心が行動を整え、
やがて行動が世界の波に溶け込んでいく。


その循環の中で、

「生きていること」自体が祈りになる


僕はそれを、

いのちの経を生きることだと思っています。

 


記者:
それは、

悟りや救いを“どこかに求める”のではなく、
すでにこの瞬間にある“いのちの働き”として見る

――そういう視点ですね。

 


僕:
まさにそうです。


たとえば花が咲くとき、

誰かに許可を取るわけではありません。


ただ自然に、

生命のままに咲く。


それと同じで、

僕たちの心も、

本来は宇宙の法則と調和している


唱題とは、

その調和を“思い出す”ための鍵なんです。

 

「祈る」とは、

「思い出す」こと。


「信じる」とは、

「響き合う」こと。


この二つが重なったとき、

人は自然に“法の人”になる。

 


記者:
つまり、

法華経は“読むもの”ではなく、

“生きるもの”。


そしてその経は、

誰もが自分の中に持っている――。

 


僕:
そうですね。


人生は完成された教えではなく、

今も続く“経の執筆”です。


悩みも失敗も、

全部が一つの章なんです。


その中で唱題は、

迷いを整え、

ページをめくるためのリズムになる。


南無妙法蓮華経

――この声は、明日の自分を描くための一筆です。

 


🌕終章のことば

 

「いのちの経を生きる」とは、
信仰を語ることではなく、

存在そのもので祈ること

 

言葉を超えたところで、
心が静かに宇宙と重なり、
すべての出来事が「共に生きる法」として光り出す――。

 

そのとき僕たちは気づくのです。


法華経は“外”にある教えではなく、
自分という宇宙の中で、今も書き続けられている経なのだと。



記者:
ここまでお話をうかがってきて、

南無妙法蓮華経という唱題が、

単なる宗教的行為ではなく、宇宙との共鳴

――つまり「共力(きょうりき)」の実践であることが

よく分かりました。




では最後に、

「法華経を生きる」ということについて、

お聞かせいただけますか。

 


僕:
はい。


僕にとって「法華経を生きる」とは、

“祈り”と“行動”を分けない生き方を意味します。


唱題とは、

心を宇宙の法に合わせる作業ですが、

それが整えば、

日常のあらゆる瞬間が“唱題の延長”になる。


つまり、

「祈っている」と「生きている」が

区別できなくなるんです。

 


記者:
祈りと行動が一体化する

――とても興味深いです。


それは、

「信じる」ことを超えて、

「生きる」ことそのものが法になる、

ということでしょうか。

 


僕:
そうですね。


たとえば仏教の初期段階では、

「悟り」とは

修行を経て到達するものとされていました。


けれど、

法華経ではその構図が反転します。


“悟りは特別な境地ではなく、

すでに誰の中にも具わっている”


この思想を、

日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」という形で

日常に取り戻したんだと思うんです。

 

つまり、

悟りは“遠くにある光”ではなく、

“今を生きる光”


それを思い出させるのが、

唱題なんです。

 


記者:
なるほど……。


では、

その「今を生きる光」を実感するためには、

どんな姿勢が大切になるでしょうか。

 


僕:
一言で言えば、

「信じきる勇気」です。


でもこれは、

“神頼み”のような他力依存ではありません。


「僕が僕を信じる」という意味での“自力”があり、
その自力を超えて

自然や宇宙と調和する“共力”がある。

 

この両輪が噛み合ったとき、

僕たちは“生きる法”を体現する。


すると、

起こる出来事すべてが意味を持ち始め、
「なぜこの経験が自分に与えられたのか」を、

恐れではなく“感謝”で受け取れるようになります。


とはいえ、

現実は、なかなかそういきませんが…(笑)

 


記者:
まるで、

人生の一つひとつが

“経文”そのものになるようですね。

 


僕:
まさにその通りです。


法華経は、

文字としての経典であると同時に、

「生きる経」でもある。


僕たちが悩み、選び、迷いながらも前へ進む

――その軌跡こそが法の現れなんです。

 

そして、

その道を照らすのが「南無妙法蓮華経」です。


宇宙と人間が共鳴し、

心が整い、行動が自然と導かれる。


この循環が続く限り、

人生は常に“創造の場”になる。

 


記者:
なるほど……。


「法華経を生きる」というのは、

何かを信じ込むことではなく、
宇宙の法とともに“創造しながら生きる”

ということなんですね。

 


僕:
はい。


信仰とは、

「止まること」ではなく

「流れ続けること」だと思います。


その流れの中心に、

常に唱題がある。


だから僕は今日も、

心を整えるように唱え、
その声がやがて行動へと

変わっていくのを感じています。

 

南無妙法蓮華経

――それは、宇宙と人間がともに奏でる“いのちの響き”なんです。

 


🌸あとがき:内なる宇宙へ向かう声

 

「法華経を生きる」とは、
特定の宗派や信仰に帰依することではなく、
自分の中に宇宙を見る”という姿勢のこと。

 

それは、

祈りが行動になり、行動が祈りになる

 

――そんな往復の中で、
僕たちは

少しずつ“生きることそのものが法”であると

気づいていくのだと思います。



 

記者

前章では、

「唱題とは宇宙と自己の調律である」

話していましたね。



その中で出てきた

「自己調律の三層構造」という言葉が

気になります。


具体的には、

どんな構造なんでしょうか?

 

僕の理解では、

自己調律は大きく3つの層で起きています。


それが

「内的調律」「外的調律」「共鳴調律」です。


順に説明しますね。

 


第一層:内的調律 ― 「心の波動」を整える

 

まずは内的調律です。


これは、

唱題によって自分の内側

――感情・意識・思考の波を整えるプロセスです。


言葉の響きそのものが、

内なる“乱れた周波数”を整えてくれるんです。

 

たとえば、

南無妙法蓮華経を唱えると、

一定のリズムと音の振動が

身体の内側に響きます。


それは、

呼吸を整えるように、

心の波動も整える。


この段階では、

まだ宇宙との交信というより、

自分の中の宇宙の調律なんです。

 

記者

つまり、

最初は「宇宙との対話」ではなく、

「自分自身との再会」なんですね。

 

まさにその通りです。


僕たちは日常の中で、

無意識に外部のノイズを拾い続けている。


怒りや不安、焦りのような雑音が

心の周波数を乱してしまう。


唱題はそのノイズを沈め、

静寂の“基音”を取り戻す行為です。


この内的調律が整うと、

心は自然に「充足」「安定」「感謝」といった

波へと変わっていきます。

 


第二層:外的調律 ― 「現実との調和」が始まる

 

記者

なるほど。


では、

次の「外的調律」とは何でしょう?

 

内的調律が進むと、

次に外的調律が起きます。


これは、

整った心の波動が、

現実の行動・選択・出会いに

反映されていく段階です。

 

人は、

心が整うと

自然に「正しいタイミング」で動くようになる。


無理をしなくても、

必要な人や出来事が流れ込んでくる。


それは引き寄せではなく、

整った波動が現実を通じて具現化するだけのこと。

 

つまり、

唱題後の自然な行動そのものが、

外的調律なんです。


このとき、

心と現実が矛盾なく動き始める。


共力のエネルギーが、

実際の行動や出来事という形で

流れ出していくんです。

 

記者

まるで

祈りの続きが、日常の中で動いているような

感覚ですね。

 

ええ。


だから僕は、

「唱題したら、あとは自然に任せればいい」

よく思うんです。


無理に何かを操作しようとするのではなく、
唱題で整った心が

自然に導く流れに身を置く。


それこそが、

宇宙との“共同作業”です。

 


第三層:共鳴調律 ― 「宇宙との共力」が生まれる

 

記者

最後の「共鳴調律」は、

まさに共力(きょうりき)の領域ですね。

 

そうです。


内的・外的の調律が整ったとき、

宇宙全体との共鳴が起こります。


これはもう「祈りが叶う」ではなく、

「祈りが動いている」状態。

 

南無妙法蓮華経を唱えるとき

、その音は“宇宙の呼吸”と重なるように響く。


そのとき、

自分の願いは「個人的な欲望」ではなく、

「宇宙全体の調和の一部」として働き始める。


その結果、

現実の中で自然な変化が起こり、

願いが“叶ったように見える”んです。

 

記者

なるほど。


それは、

「宇宙が自分の中で動く」

という感覚に近いかもしれませんね。

 

まさにそれです。


だから僕は、

「祈りは届くものではなく、響くもの」

と考えています。


“届く”というのは、

どこか遠くの存在に投げかける行為。


でも“響く”というのは、

宇宙という同じ場の中で振動し合うこと。


唱題とは、

響き合う祈りなんです。

 


🔁 三層の循環 ― 「祈りのサイクル」が続く

 

記者

内的・外的・共鳴の三層が整うと、

どんなことが起きるのでしょう?

 

面白いことに、

そこから正の循環が始まるんです。


唱題によって調律された自分は、

日常の中で自然に調和した行動を取る。


その行動がまた新しい共鳴を生み、

さらに内側を整える。


この循環こそが、

「共力のサイクル」です。

 

唱題はそこで終わらず、

むしろ“生き方の波”として持続していく。


祈ることと

生きることが一体化する。


それが僕の理想とする「動的な祈り」の姿です。

 


記者

つまり、

「祈ること」と「生きること」が

分離していない世界観ですね。

 

はい。


僕にとって、

祈りとは「宇宙との同調の継続」なんです。


唱題の時間だけが特別なのではなく、
日常の呼吸、言葉、出会い、行動

──そのすべてが共力の延長線上にある。


宇宙と共に動く祈り、

それが僕の宗教観の核心です。

 


(→第4章「生きる法」としての法華経へ続く)