長い整体師人生の中で、日々の健康の大切さを感じています。信仰深かった祖母の教えを元に、心と体が健康になり、生き方が楽になるお話をします。
人は祈りをする時、感謝するときに手を合わせお辞儀をします。これは、神様(宇宙エネルギー)と繋がり、神様に喜んでいただける動作なのです。また、この行為は、世界中、言語が違う者同士でも心が通じ合うことが出来る、万能言語でもあります。それだけでなく、この手を合わせる動作は、自分の体にも良い影響を与えます。乱れた気の流れを整える効果があります。イライラしたり、気分がすぐれない時に手を合わせて深呼吸するだけで体と心が整ってきます。出来れば日常、手を合わせる動作をしながら、感謝の心や祈りをすれば、さらに自分の体が活性化するはずです。宗教などにこだわる必要はありません。
不幸と思えることが続いたり、不幸感から抜け出せない人がいます。「自分は特に悪いことをしてきたわけではないのに、どうして不運なことばかり起こるのだろう」と疑問に思う方があると思いますが、そこには必ず原因というものがあり、その原因を自覚できる人は多くありません。そこには自分が原因ならまだしも、ご先祖さんの原因ということもあります。ご先祖の因縁には、良い因縁と悪い因縁とがあり、どちらも子孫が引き継ぐことになります。因縁というものは、自然界の法則と同じで、ニンジンの種を撒くとニンジンが出来、ナスビの種を撒くとナスビができます。トマトの種を撒いてキュウリが出来ることはありません。どのような因縁も種を撒かずして、芽(結果)が出ることはありません。物事には100%原因があって結果があります。この自然界(宇宙)の法則は絶対です。もしご先祖からの悪因縁が原因で今不幸感から抜け出せない人は、自分に非がないと言ってみても何の解決にもなりません。今の不遇と思える環境を変えたいのであれば、自分なりに何らかの行動が必要です。その解決には、感謝と反省、そして徳積み(誓いと実行)です。ご先祖の因縁であれば、自分に責任はないと言う人がいますが、ご先祖や親の不徳の借金をそのままにすることは出来ません。もし、自分が返済しなければ、自分の人生の不幸感は解消されず、尚且つ、自分の子や孫に悪因縁は持ち越されてしまうからです。自分は悪いことはしていないというのは当たり前のことで、ご先祖の悪因縁がなくなることはありません。徳切れを起こしている自分の運命を転換するためには徳積みをする以外に解決の道はありません。✳️似非(エセ)宗教が勧める、多額の壺やお布施で助かることはありませんので注意してください。
「おかげさまで」を漢字で書くと「お陰様で」又は「お蔭様で」となります。陰陽の働きでいうと「陰」になります。「見えないが、隠れた多くの人の思いや手助けで、今の自分がある。なんと有り難いことか、感謝申し上げます」という意味があります。この感謝はしてもらった立場の事ですが、する側の立場であれば、隠れた徳積み、これを陰徳と言います。ちなみに、反対語を「陽徳」といいます。人前で行う徳積みです。一般的に、特にどちらが良い悪いはないのですが、私の祖母が言っていたのは「陰徳」に勝る徳積みはないと言っていました。その理由は、畑に種を撒いたら、土に埋めたり、土をかけます。種は隠れますが、地中から芽が出て成長し、実を付けます。種を撒くだけで土をかけなければ、芽が出ることもなければ、実をつけることもできません。徳積みの種も同じことで、「陰徳という誰にも知られていないところで積む徳は、神様が大層喜ぶ徳の積み方なのだ」と祖母から教えられました。「陽徳」が悪いわけではないのでしょうが、陽徳の怖いところは、・自慢したくなる。・見返りが欲しくなる。・人に褒められ、「自惚れ」てしまう。・恩を着せたくなる。・認められたいと欲が出る折角、善い行いをしても、このような欲が絡んでくると神様に喜んでもらえなくなります。
お供えやお布施が困った方たちに、使われるならとても良いことだと思います。お供えやお布施がその神社仏閣の維持にため使われることも仕方がないと言えます。しかし、そのお金が神社仏閣におられる住職や神官のぜいたくな暮らしの為に使われるのであれば、それは違うような気がします。お供えは、自分の欲を満たすための願いを目的にしてはいけません。お供えは、日々生かされている事の神様への感謝を形として示す行為です。お供えをしたからといって、自分の欲がかなえられることはありません。しかし、そのお供えが、人の為に使われれば、徳積みにはなります。神社仏閣の中に神様がいるのではありません。置いてある仏像や神様や仏さまを描いた掛け軸が神様ではありません。神社仏閣は、修行の場であり、神様を意識できる場所の目安でしかありません。極端な話、神社仏閣でなくても、神様は意識すればどこにでもおられるし、自分の中にもおられます。お供えが、人の為に有意義に使われることで徳積みになるのであれば、別に神社仏閣でなくても、人の為に役立っている団体や活動している人たちへの寄付という形でも意味があります。自分の欲を満たそうと、お供えやお布施をしたり、ツボを買っても、ご利益はありません。人の為に行動すると心を定め、それを実践したときにだけ、神様からご守護を頂けます。これは私の祖母から聞いた話です。あくまで個人的な考えなのでご容赦願います。
認知の母の介護は大変でした。「でした。」と過去形でいうのは、今は精神的にはその当時と比べ、気持ちがずいぶん楽になっているからです。過去に比べ、現在95歳の母の介護の負担は比べ物にないほど増えているにもかかわらずです。母は、80歳くらいから認知が入り、徐々に進行していきました。その頃は、私たち夫婦は、どうにか認知の改善、もしくは進行を遅らせようと四苦八苦しました。母の食事、睡眠、運動、排泄、薬やサプリメントなど細かにというよりも口うるさく、時に怒りながら接していました。母も私を毛嫌いし、避けるような態度をとりました。これも母を思う気持ちなのに、理解してもらえないことがもどかしく、それがストレスになっていました。しばらくして、そのストレスから私は体を壊し身動きできなくなった時、妻に負担が掛り、妻の体調も崩してしまいました。自分たちが倒れたのでは介護どころではない、自分たちが健康でいてこそ母の命も守られる。と気づき、死ぬも生きるも母の事、私たち夫婦はすべきことをすれば、後は母の問題、とその時から割り切れるようになりました。今は、食卓に食事の用意をした後は、一応声はかけますが、時間に関係なく、お腹の空いた時に自由に食べてもらっています。夜中起きて、昼に寝てばかりいても何も言いません。運動も無理にさせることはありません。(関節運動のリハビリは時々私がします)薬の時間も厳格に決めていません。(寝ていれば起きた時に飲ませます)わけのわからないことを言ってもそのまま受け入れて話を合わせます。排泄で部屋を汚しても、淡々と奇麗にするだけで、何も言いません。だからと言って冷たい態度ではなく、笑顔でやさしく接します。これが出来るようになってからは、母は穏やかになり、母との関係がとても良くなりました。母にとって危険なものはこっそり排除し、食べさせてはいけないものは手の届かないところに隠し、部屋の床は汚してもすぐに取り換えられる使い捨てのシートを敷き、ケアマネージャーと連携し、今の問題を物理的にどのようにすれば解決するかを、知恵を出し合い、母を指導したり、根性論で頑張るといったことは一切しないようにしました。母の介護で、悟ったことは、「無理に人を変えようとしてはいけない」ということです。自分がすべきことをした後は、お任せにするのが一番良いのです。人はそれぞれに、色んな考えがあり、自分の思い通りにはならないものと割り切ることで、やってやったと恩を着せ見返りのないことに不満を感じることはなく、相手を変えたいというストレスもなくなるのです。自分の気持ちだけを伝え、その人のためになる行動(徳積み、因縁果たし)を淡々とすれば、必ず良い結果が付いてきます。・・・・・と言いたいですが、結果はそれほど重要ではなく、神任せでよいのです。後の結果は、その人の因縁の問題であり、運命なのですから。それがたとえ、自分の母や子であってもです。「人事を尽くし天命を待つ」は介護に限らず、社会の中の人間関係においても同じことがいえます。
漫画の世界ですが、異世界物や魔法物によく出てくる防御魔法。シールド(結界)で相手の攻撃から身を守る。相手を殺さず、無力化する魔法とか。そのような魔法が本当にあればいいなと読みながらいつも思います。日本は平和国家であり、他国への侵略はしないと決めた国です。それはそれで素晴らしいことなのですが、かといって周りの国が日本が何もしなければ何もしないかと言えば、そうでもなさそうです。日本を敵国と定めている国の中国、ロシア、北朝鮮に日本は囲まれています。その国はたちの悪いことに核を保有しています。いつ何時、何かの口実を付けて、核使用をちらつかせ、日本の領土を奪いに来る可能性(核を使わなくても)は0ではありません。だからと言って、今論争になっている核保有の問題で、安易にそれらの独裁者の国と同じ土俵にあがることが良いことなのか思案が必要です。核の問題は、東北の原発事故のように、人類が放射能を制御する、または無効にする方法が確立していない以上、安易に扱うべきではないと思っています。日本の科学技術は素晴らしいものがあります。出来れば核に頼らない、最初に述べた完璧な防御の兵器が出来ないものかと思ってしまいます。もし、そのようなものが出来れば、核を持っても意味がない(完璧な防御による核の無力化)ことになり、核の廃絶が出来ると思います。理想としては、人類を破滅に追い込む核は、自国において持つべきではなく、他国においても持たすべきではありません。しかし、何を言っても、今保有している国は、核廃絶をいくら唱えても核を手放すことはないでしょう。タイトルは忘れましたが、出所不明の一発の弾頭ミサイルが海洋から発射されたことにより、発射した国を推測し、その疑心暗鬼によって、報復の連鎖で、世界が破滅に追い込まれると言う映画がありました。一発のミサイルで世界が破滅する恐怖を画いていました。核の保有による防衛は、突発的な事情で、均衡が崩れると制御が効きません。人類は、近い将来に、一部の愚かな指導者達によって、滅びるかもしれません。戦争というものは、土地の奪い合い、思想の押し付け合い、資源の取り合い、など人の欲の思惑で起きるもので、人に欲がある以上、争いというものはなくならないのでしょう。神様の思想を伝える、宗教でさえ国同士の争いの原因になるのですから、なかなか平和というものは難しいようです。世界平和はまだまだ現実的ではない先のことですが、自分の心の中でだけは、平和というものを作り出すことは可能なので、他人の意見や考えに流されず、穏やかに健やかに過ごすことを心掛けたいですね。
認知の母の世話の仕方ですが、以前は、母がなかなか言うことを聞いてくれず、その上文句まで言われ、こちらもイライラして、怒りながら、世話をしていたことがあり、その波動が伝わるのか、母も癇癪を起こし、お互いがうまくいきませんでした。今は、世話をする時に、こちらが手間をかけているにもかかわらず、「ごめんね、寝ているのに起こして」「着替えは寒いよね、すいませんね」「パンツが濡れてるから着替えよう、めんどうかけてごめんね」というようにこちらが低い心で対応すると母も素直に気持ち良く動いてくれます。。認知の親が、訳の分からないことを言っても、それを否定せず、言い争いをせず、怒らず、親に合わせて会話をします。認知の親との力関係性は、逆転し、子である世話をする側のこちらが、圧倒的に強い立場にあります。この事から言えることは、圧倒的に力のある者が、弱者に対し力で言うことをきかせるのでは、うまくいっているように見えても、実際は反感や、憎しみを生み、必ず反動があるのです。人間関係においても、国同士の関係においても同じことが言えるのではないでしょうか。力の差がある場合、強者は弱者に対し力でなく、思いやりやいたわり、優しさで接してこそ物事がうまく運ぶように思います。
人を動かす方法は〇言葉巧みに話をする〇過激な言葉で興味を抱かせ誘導する〇大きな声で相手を言いくるめる〇暴力で押さえつける〇権力を使う〇金に物を言わせる〇洗脳するなど、いくらでもあります。しかしこれらの方法は、本人の意志に反し、無理やり従わせる方法であり、心が付いて行っていない為、いずれ反動が起こります。行動を変えるには、まずは心が変わらなくては行動は変わりません。その人の人生観が変わる。生き方が変わる。感情や気持ちの持ちようが変わる。幸福の価値観が変わる。それのより行動が変わる。相手の人生観や価値観や感情や心を変える唯一の方法は、饒舌な言葉でなく、過激な言葉でなく、大きな声でなく、力で押さえつけることではなく、権力や金でなく、洗脳でもなく、その人を思いやる優しい心以外にないのです。
「ありがたい」の語源をネットで調べると、「有難い」とは、自分にとって恩恵や好意を受けて感謝したい気持ちを表す言葉で、「めったにない」「珍しい」という意味も持っています。もともとは「有ることが難しい」、つまり「めったにないほど貴重である」というとこからきているようです。これは、仏教で、「人間として生まれることは有難い」といった尊い意味も込められているそうです。前回ブログで「ささやかな幸せ」について書きましたが、この幸せを感じるためには。この「ありがたい」という感謝の言葉の意味を知る必要があります。日常にあるささやかな幸せを、当たり前と考えるのではなく、「有ることが難しい」、「めったにないほど貴重である」と考えられるかどうかで幸せ感は変わってきます。信仰の極意は、神が与えてくれた体や自然をどのように感謝して味わい生きていくかで、人生の価値が決まってくるのです。
前回のブログで書いた、「ささやかな幸せ」についてお話しします。私が言う「ささやかな幸せ」は、よくよく考えれば、本当はすごく大きな幸せなのですが、あまりに日常的で、当たり前と思っていることなので、ほとんどの人がそれがありがたいと感じていない幸せです。ささやかな幸せの一番は、今生かされているということです。息をして、心臓が動き、心が自由に使うことが出来ることです。これが真に心に収まれば、信仰の極意を得たと言ってもよいくらいです。他には、目が見える、耳が聞こえる、声が出せる、匂いがわかる、味がする、手足が使える、当たり前にできている人にとってはありがたみを感じることはありませんが、ひとたびケガをしたり、病気になるとそのありがたさが身に沁みます。外に出ると、さわやかな風を頬に感じ、太陽の日差しが暖かく、山々の木々は四季の変化で色鮮やかな景色を見せ、海の波の音に癒され、夜の星で宇宙を感じ、少し意識するだけでささやかな幸せはいくらでもあります。自分の体と地球や宇宙の働きを感じ感謝が出来れば、誰でも得ることが出来る幸せなのですが、とても簡単なようで、それを日々感謝するのは、最も難しいようです。残念なことに、私も頭ではわかっていても、今だ出来ていません。
前回のブログで「痛みの感受性は人それぞれに違う」というお話をしました。同じように、人それぞれに、幸福を感じる感受性も違います。貧困で日々食べることができれば満足という人もいれば、毎日美食を味わうことができれば満足と言う人もいます。仕事がなく働けるだけでありがたいという人もいれば、高給をもらえて、待遇が良い仕事につければありがたいという人もいます。子供が病気がちで元気でいてくれるだけでいいと言う親もいれば、人より勉強ができ、高学歴、医師や弁護士を望む親もいます。電気代も払えないと嘆くものもいれば、気に入った車や高級バックが手に入らなかったと残念がるものもいます。子供の非行行為に悩まされ、引きこもりを心配する親もいれば、子供が有名学校に入学できなかったと嘆く親もいます。前者にとって、後者はなんと贅沢な悩みかと考えてしまいそうですが、単純な見方をすれば、生活水準が高いからと言って悩みがないわけではなく、程度にかなりの差はあっても、人は生きている限り、必ず何らかの悩みを抱えていると言うことです。人の悩みは、他人から見ればたいした悩みでないように思えても、当事者にとっては深刻な悩みと感じている場合があります。人それぞれに、価値観が違い、幸福の基準が違うからです。どうせ悩むのなら、後者の方で悩みたいという人が多いかもしれませんが、ここで言いたいことは、人生は、どのような人にでも悩みはあるということ、それと同時にどのような人にでも、感じようと思えば、幸せも沢山あるということです。その隠された、日々の生活にある、ささやかな幸せは、意識しないと気がつかないことが多いので、それを感じ取れる人でしか味わうことが出来ません。その小さな幸福を感じとることができる人だけが、人生を豊かにして、穏やかに過ごすことが出来る人ではないかと私は思います。
疑問1、なぜ、体の歪みがあるにもかかわらず、痛みのある人と、痛みのない人がいるのか。疑問2、なぜ、痛みのある人の体の歪みを改善させると痛みは消失するのか。この疑問点から、痛みは「歪み以外の要因」も存在していることを示しています。その疑問の答えは、歪みの大小の差の問題だけでなく、「人それぞれ痛みの閾値が違う」です。同じ刺激量の痛みであっても、人それぞれに感受性が違う(痛み方が違う)のです。1の刺激で強く痛みを感じる人もいれば、10の刺激でもあまり痛みを感じない人もいます。肩コリがつらいという人の肩を触ってみた時に本人の自覚ほど肩に凝りがない場合もあれば、これまで1度も肩こりになったことがないという人の肩を触ると、石のようなコリがあるのに自覚がないということがあります。同じ人であっても、毎日痛いわけではなく日によって痛い、一日の中でも朝だけ痛い、生理の時や寝不足した時に痛いというのもあります。人それぞれに痛みに対する感受性の違い(痛みに神経質、痛みに鈍感)、それ以外にも外的環境や食事、生活のリズム、生理現象など日々の体調によって、痛みの感受性(痛み方)は変化します。例えば、〇晴れの日、雨の日〇乾燥している日、湿度の多い日〇人間関係のストレス〇睡眠不足〇生理〇筋力と柔軟性〇内臓不調〇長時間の同じ姿勢〇冷え〇カフェイン摂取〇アルコール○親しい方の死去などです。歪みが大きいのに、痛みを感じない人は、痛みを感じる感受性が弱いのです(痛みに対して鈍感・無神経)。歪みが小さいのに痛みが強いという方は、痛みを感じる感受性が強いのです(痛みに対して敏感・神経質)。従って、痛みと歪みの関係は、その人の持つ「歪み」に対し、許容範囲を超えた「痛みの感受性の閾値」が出現した時に痛みが発生するのです。したがって、痛みは、「歪み」だけの問題ではなく「歪みと感受性」のバランスによって発生するということです。整体で歪みを正せば、敏感な痛みの感受性を正常にし緩和すると同時に、痛みの原因である体の歪みが無くなることで痛みを消失させることが出来ます。ブログの「体の歪み(1)」で、人の体は左右対称ではないと説明しましたが、運動器である骨格と筋肉だけは左右対称になっています。運動器の痛みのほとんどが筋肉や関節周辺の軟部組織で起こります。運動器だけは整体で左右対称に近づけることは可能なのです。(完璧な左右対称ではありません)体の歪みを改善することで、重心が正常になり、運動器系である各筋肉や関節の負担が減少し、体を動かしやすく、横隔膜に関係する呼吸器系も楽になります、その結果、痛みの閾値が正常化します。整体で歪みを正せば、敏感な痛みの感受性を緩和させることが出来ます。痛みがないからと言って健康であるとは言えません。大きな歪みがあるにもかかわらず痛みを感じていない人は特に注意が必要です。なぜならそれは、体の警報機が壊れている状態だからです。痛みが出た時は、すでにかなり進行している、ということがあります。痛みはないが歪みがあるという人を施術すると、今まで鈍い感覚が当たり前と思っていた自分の体が、今までよりも体が軽くなり、動かしやすくなり、深い呼吸が出来、今までとは違う感覚が発現します。慢性的に慣れた不自然な体の感覚が、今まで正常と頭と体が認識していたのが、そうではなかったことに気が付きます。整体は、痛みの感受性(強い、弱い)の異常を正常にします。そして、その人の感受性の許容範囲を超えていた痛みの原因である歪みを許容範囲内に収まるように改善します。整体以外にも、痛みの感受性が高い方の閾値だけを緩和させる方法はあります。例えば〇薬〇呼吸法〇瞑想〇睡眠〇食養生〇鍼灸やマッサージ〇恋愛〇適度な運動〇趣味〇信仰○温泉や旅行などです。痛みの感受性は精神面や生活環境(食事、睡眠、ホルモンバランス、運動など)に左右されるので、歪みが改善するわけではありませんが、これらの方法で痛みの閾値を緩和させることは可能です。そうした緩和の方法をしても、回復できないレベルの痛みがある場合は歪みを改善する整体が必要です。整体は、運動器系や自律神経系における「異常な痛みの感受性」と「歪み」を改善することで、敏感に反応する体のセンサーを正常に戻すだけでなく、歪みによる関節や筋肉の負担を軽減し、重度でなかなか改善できない痛みや痺れに対応できるのです。もし家の近くで良い整体院があれば、一度体験してみてはいかがでしょうか。
母が圧迫骨折して急性期を過ぎた後は、体はひどく歪みましたが、その間、全く痛みがなく10数年過ごせています。母の体験から、体の歪みと痛みの関係性を疑いましたが、実際私の整体院において、実際の臨床上、体の歪みを正せば、ほとんどの痛みやしびれは消失することがわかっています。これまで、延べ何万人もの実績があります。歪みと痛みの関係性について疑ったことは今までありません。母に限らず昔は農作業をする家が多く、近所のお年寄りは、みな腰が曲がっていましたが、腰痛を訴える人もいれば平気な人がいました。それを見ると歪みと痛みに関係性がないように見えるのに、実際は、痛みのある人の歪みを改善すれば痛みは消失する、それはどうしてか。その理由を解き明かしたいと思います。(5つの真実)〇体は歪んでいるのに痛みのない人がいる。〇歪みを改善すれば関節や筋肉の痛みは軽減もしくは消失する。〇厳密にいうと人類の99.99%の人の体は歪んでいる。○人体は元々左右対称ではないが、体の歪みに直接関係するのは運動器系である骨格や筋肉であり、その運動器系に限って言えば、骨格と筋肉は左右対称である。○人は重力に対し、足の裏の小さい面積で、絶妙のバランスで立って動いている。そのために、どこかの関節もしくは筋肉に疲労や故障が起きるとそれを補うように歪みは全身に波及する。ここから導き出せる答えは何なのか。次回、その答えを説明します。・・・・・体の歪み(4)に続く
整体師として、私もこれまで「関節や筋肉の痛みやしびれ、コリの根本原因は体の歪み」と説明してきましたが、はたしてそうなのだろうかと疑問に思ったきっかけをお話しします。私の95歳になる母が、17年位前父の入院中、付き添いをしている時に、椅子から誤って滑って尻もちをつき、その際、背骨の圧迫骨折をしました。痛みで起きられず、3カ月位寝たきりになりました。父の入院と重ねり家内も私も大変でした。ケガをした直後は痛みが強いだけで、母の体の形は変わっていなかったのですが、時間の経過共に腰が曲がり、160㎝以上あった身長は今は140㎝を切っています。体が前側に大きく曲がり、後ろに腰骨が突出しているので仰向けに寝ることができません。前側の肋骨下部と腸骨上部が引っ付いている状態なので、前から見ると腹部が見えません。しかし、この歪んだ体で10数年、母は腰痛を訴えたことはなく、体のどこかが痛いと言ったことがありません。外見で見れば、これだけ体が歪んだ状態でありながら、どこも痛くないのです。歪み=痛み・・・なのか?母の体を通して、歪みと痛みの関係について深く考える最初のきっかけでした。・・・・・体の歪み(3)に続く
整体院に行くと、整体師から決まり文句の「今のあなたのつらい痛みは体の歪みが原因です」と言われるはずです。歪みと痛みの関係性については、体の歪みが末梢神経に影響し痛みを発生させる。それに伴う筋肉の作用についての説明も受けると思います。しかし、整体師の説明に反し、人によっては歪みがあるにもかかわらず、全く痛みや痺れやコリのない(感じていない)方がおられます。今回は、この矛盾についてお話ししたいと思います。痛みや痺れコリのある人で体の歪んでいない人を見たことがありません。しかし、体の歪んでいる人の中には痛みのない人がいます。なぜか。ここで整体業界では言ってはいけないタブーを言います。実は「99.99%の人類は体が歪んでいる」ということです。その理由として、〇左右の脳の働きが同じではないこと。簡単に言うと、右脳はイメージ脳で左脳は思考悩です。左の脳は右半身に影響し、右の脳は左半身に影響しています。〇内臓は左右対称ではありません。心臓の位置、胃の位置、肝臓等の位置。〇人には、利き目、利き手、利き足がある。ボールを蹴る足、ボールを投げる手、は決まっています。(両方使えると言う人も、利き手や利き足は存在し、反対の手足も使えるように練習してできるようになっています)〇利き手や利き足のせいで左右の筋肉のつき方が違う。〇人の体は地球の自転方向の影響を受けている。陸上競技などのトラックを走る時左回りがしやすい。これらのことによって、人類は歪みの大きい小さいの差はあっても、必ず体は歪んでおり、厳格に見て、左右対称の人はいないと言ってよいでしょう。健康と思われる人も詳しく調べると必ず歪みが見つかります。と、なれば、「痛みや痺れの症状と体の歪みに関係性がないのであれば、整体をする意味がないのではないか」と言われるかもしれません。・・が、そうとばかりは言えない理由があります。それについて詳しくお話ししますので、最後までお付き合い下さい。「体の歪み」のお話しは(1)~(4)まであります。・・・体の歪み(2)に続く
体の具合が悪いと、イライラしたり、余裕がなくなり何に対しても腹が立ち、短気になります。特に、胃腸が不調だと、その傾向は強くなるようです。胃腸と自律神経は深い関係があり、ストレスが原因で過剰な胃液を分泌し、胃の粘膜を荒らし、胃の具合が悪くなれば、ますます精神的に不安感や短気の症状が起こり、さらに胃が悪くなるといったサイクルに嵌ってしまいます。腸の不調で、腸の働きが低下すると、下痢や便秘が起こります。さらに、体はだるく、昼でも眠気が襲い、頭がぼやけ、やる気が出なくなります。自律神経の不調は、全身に及びます。これを解消するために、一般的に行っている対策は、胃腸薬を飲む。精神薬を服用する。症状を無視して根性で頑張る。中には、考えもなしにコーヒーや眠気をとるドリンクなどを摂る人がいますが逆効果です。一時的には頭がさえたような錯覚が出ますが、胃を荒らし、肝臓や腎臓に負担をかけ益々、自律神経は乱れます。私もストレスを抱えると胃腸の不調に悩まされることがこれまで度々ありましたが、いろいろな対策をしてきた中で、一番効果があったのは、「歩く」ことです。とにかく何も考えず、目線を上げて景色を見ながら歩くことです。ゆっくり、ゆったり、今生きている感覚を実感しながら歩くことです。呼吸を乱さないように、体の緊張をほぐすように、気持ちよく歩くことです。かと言って、姿勢を崩しダラダラ歩いてはいけません。体を軽くして、リラックスはしているが体の中心軸はしっかりしている感じ。胃腸の不調や自律神経の問題は、歩くことで解消します。毎日欠かさず歩きましょう。人間は歩くことで生きられる生き物です。
他国を語るときに、各個人の違いを考えず、全国民を一緒ごたにしてしまうことがあります。例えば、習近平の中国、トランプのアメリカ、プーチンのロシア、金正恩の北朝鮮、ネタニヤフのイスラエルなど、その国のトップの思想や 施策、言動が、その国全員のものと考えてしまいがちです。これらの国のやり方を見ると、政権維持のためには平気でうその情報を拡散し、言論を弾圧し、自国の国民に対しても他国に対しても、なんと理不尽なことをするものだと感じてしまいます。しかし、そのような国においても、個人の小さい単位では、政権を持つ権力者とは全く視点の違う考えを持つ人は必ずいます。独裁者の国において、自由に自分の意思を示すことが罪になり、さらに、情報操作されて、正確な情報が入らない中で多くの国民は洗脳される。そのような状況下では、素晴らしい考え方を持つ個人は沈黙するしかありません。マスコミや国民が国のトップや政府を自由に批判することが出来る日本は、見方によっては、良い悪いは別にして、とても自由で民主的な国なのだと思います。日本はとても良い国で、民度も比較的に高いと評価されていると思いますが、そこは注意が必要です。日本人が世界でスポーツで活躍するのを見たり、研究や開発で世界的な賞をとったりすると、同じ民族として誇りに思うのは私だけではないと思います。しかし、それは世界に認められた人が、努力し頑張った結果であって、自分が同じ民族であっても、自分のことではありません。その人物を目標にすることは良いことですが、同じ民族だから、すべての国民が自分も同じように優れていると考えるのは少し違うような気がします。どのような国においても、形は違えど素晴らしい人材や世界観を持つ人は必ずいます。逆に、日本にも、お金や権力しか興味の無い政治家や資本家、ヤクザや詐欺師など犯罪に手を染める人や、おかしな宗教や片寄った思想を持つ人、など、いくらでもいます。世界は国ごとに分かれていますが、国という一塊にこだわると、必ず国同士の感情的な対立を生みます。その対立によって、その国の民族そのものを憎んだり、腹を立てたりしてしまう傾向が出てきます。各国の大半の人は、本来、戦争を望まず、平和を望み、幸せな生活を営みたいと思っています。自分の家族や愛する人を戦争で死なせたいという人はいないと思います、ですが、どの国もお金があり権力を持つ人が、目立ったり、トップに立つことが多いので、その人たちの利害によって国の方針が決められます。世界平和を望み、対立を好まない人、思いやりがあり、隣人に優しい人は、どうしても、その影に隠れてしまいます。自国の事を考えることは決して悪いことではありませんが、自国だけ幸せにすることは今のように世界の結びつきが強くなった中では難しいと思います。他国を排斥する自国主義や、思想の偏り、貧困は戦争の原因になります。自分たちも幸せになるが、他国の民のことも考え、世界の人たちも同じように幸せになる、そのような考えを持つ人が世界中に増えていくと世界はもっと明るく、豊かになると思います。まずは、国の権力者やその権力者から恩恵を受ける人たち、その人を支持する一部の熱狂的なファンの言動が、その国すべての人たちの考え方ではないということを前提とすることで、世界観が変わるような気がします。結論としては、私がすべきことは、国際政治のことが詳しくなくても、人を憎まず、差別せず、身近な人のために行う、個人の徳積みの小さな単位の広がりが、ひいては世界平和につながると信じ行動することだと思います。
神様はどこにいるかと言えば、地球上、宇宙、どこにでもおられるのですが、人の体の中にも神様はいます。自然界の営みや命そのものが神様の働きです。神様がすでに自分の体にいて、休むことなく、あなたにとって一番大事な、命を生かし働いてくれているのに、多くの人が、自分の欲望を満たすために神様にお願いをします。すでに一番大切なものを頂いているのに、さらに自分の欲を満たすことを願うというのは強欲な話なのです。「願う」というのは、すでに神様が宿る自分に対して行う行為ではありません。自然界も、自分の体も、万物平等に神様は働いてこの世が存在しています。神様は、頼ったり、欲望を満たしてくれる存在ではなく、すでに多くの恩恵を頂いていることに「感謝」する存在以外に何もないのです。病になる。幸せ感がない。人間関係がうまくいかない。金がない。など、その悩みは、自分やご先祖が宇宙原理(神の理)にそぐわない生き方がもたらした結果でしかありません。神様に頼るより、生き方や考え方を修正したり、徳積みに励むことが大事なのです。そして、神様が宿るこの体を健康にし、人生を豊かにするには、神様の思惑に添った生き方をする以外にないのです。
体の歪みには、「背骨(椎骨)」の変形によるものと、「脊柱の湾曲」によるものがあります。背骨の先天的な病気や老化、圧迫骨折などの外力によるケガ以外で「背骨(椎骨)」の形状が変わることはありません。背骨自体の形状は変わらなくても、背骨に付着している筋肉の緊張と弛緩のバランスが崩れると、筋肉の作用によって「脊柱」が曲がったように見えます。背骨自体に問題がない歪みのほとんどは、筋肉の作用によるものです。(老化による椎骨の変形と筋肉の作用が並行して起こる場合はあります)脊柱は、一本の棒のような柱構造ではなく、多くの積み木を重ねた構造で前後、左右、回旋、します。従って脊柱が曲がるというのは、背骨に付着した筋肉の硬直により、その筋肉に引っ張られ、曲がったまま固定され、元に回復できなくなった状態なのです。よく整体院で言われる、「関節が脱臼している」「関節がずれている」という表現は、関節自体に問題があると誤解を生む可能性があります。従って体の歪みを改善させるためには、関節そのものではなく、筋肉にアプローチするべきなのです。だからといってやみくもに筋肉を揉み解しても歪みは改善しないので注意してください。どの筋肉が硬直し、どの筋肉が力を無くし弛緩しているのかを見極め、適切に筋肉にあった処置をしないと体の歪みは改善しません。
以前、私の院の整体治療は20分程度かけていました。特に時間制ではないので、体が整った時点で終了します。患者さんが、院に入って出るまでの時間は30分ほどでした。施術前に、患者さんに、その日の体調をお聞きするのですが、一言で答えられる内容を、細かく、必要の無い説明まで長々話される方(年配の方や自律神経の不調のある方)おられます。こちらの質問に答えず、一方的に病気とは関係のない自分のお話をされる方もおられます。その方の、治療時間の枠が決まっているので、治療時間がどんどん少なくなっていきます。若いころは、そのような患者さんにイライラして、途中で話を遮り、必要な話だけ聞いて、治療に入っていました。そうした時期に、自分が病になり、病院の医師と接する中で、話をまったく聞いてくれない医者の冷たい対応を経験しました。あまりに医師の素っ気ない態度に不信感を抱き、他の病院に転院しました。その体験から、それまでの整体の治療重視の対応は間違っていたと思うようになりました。話を聞いてくれない医師に対して拒否反応が出ると、どのような治療をしてもらっても効果がないような気がしたからです。自分の体験を通して、患者さんのお話を聞くということは治療の一環と考えるようになりました。患者さんの、体の悩みだけでなく、配偶者の事、子供や孫の事、嫁姑のこと、家の困りごと、ケガや病気とは関係がないように思えることも、その方にとっては重要な問題で、その悩みが体の不調に深く関係している場合が多いことに気が付きました。症状についての質問に答える以外は、ただ話を聞くだけで、解決策を言うことはありません。たぶん、患者さんも医学的なこと以外の回答を求めてはおらず、苦労や悩みを共感してほしいだけのように思います。整体の治療時間が短くなっても、それはそれで構わないと思うようになりました。だからと言って、治療に影響が出ないように、その人にとって、問題の体の歪みの急所を絞り込み、ピンポイントで調整するようにした結果、短い時間でも同じ効果が出せるようになりました。体に不調のある人は、不安や思い通り体が動かないストレスで、気が弱っています。聞くという行為は、癒しの治療なのです。そして、それは治療家でなくても誰でも出来る行為です。