長い整体師人生の中で、日々の健康の大切さを感じています。心と体の健康に関しての情報や日常のちょっとした気づきを書いていきたいと思います。
(鍼灸師としての祖母の生き方)戦前、戦中、戦後しばらくの間は、すべての人が簡単に医療を受けられる環境にはなかったようです。世情の混乱の中、すべての方の生活環境は平等ではなく、貧困に苦しむ方も多くおられ、医療を普通に受けられない方が多くおられました。戦前戦後と祖母の鍼灸師としての生き方は、誰にでも分け隔てない治療家でした。鍼灸の腕は、かなりのもので、完治した患者さんの批評が評判を呼び、いつも診療所は患者さんでいっぱいでした。今では差別問題であまり話題にあがりませんが、部落や朝鮮人集落など、当時は一般の人は避けるような地域がありました。若い女の身でありながら、そこの地域で、病人(子供がひきつけた、高熱が出たなど)が出て助けを求められれば、夜中でも、夫の反対を押し切り、出かけていきました。そして、お金に困っている人には、無償で治療を施していたそうです。晩年の祖母は、「鍼灸師としての腕も当然大事だが、私は心と気で治す」と言っていました。また「鍼灸のツボや針を刺す技術も大事だが、治療家の精神が充実し、無欲に純粋に相手の為を思う気持ちで治療するならば、極端な話、体のどこに鍼を刺しても治る」とまで言っていました。祖母は、治療を受けに来らた方に、必ず笑顔で優しく「大丈夫、必ず良くなりますから」と言い切っていました。祖母は患者さんの心の中にまで入り込んで、鍼灸による体の悩みだけでなく、心の病(悩み)まで、相談にのっていました。私も治療家ですから、よくわかるのですが、人の悩み(人間の業)を聞くことはかなりのエネルギーを消耗します。祖母の場合、鍼灸の患者さん以外にも、悩みを抱える多くの女性の相談にものっていました、その相談は膝詰めで深夜にも及ぶこともありました。祖母の精神力は尋常ではなかったように思います。以前、マザーテレサの記録映像を見たことがあるのですが、呼吸が乱れとても苦しそうにしている瀕死の子供の頭をなでて、マザーテレサの手が子供の体に触れた時、子供の乱れた呼吸がスーと穏やかに、楽になった映像が流れました。治療家としての医療技術も大事ですが、相手に寄り添う思い、人の為の無償の祈りのような気持ち、それが相手に伝わり、泣く子供が、母に抱かれて泣き止むように癒される。そこには医療を超えた目に見えない癒しの波動というものが存在するのではないでしょうか。純粋に相手を思う気持ちは、医療には欠かせないものであると思います。マザーテレサのような祖母の心と気の治療を見てきた私ですが、いい年になっても、凡夫の私にはまだまだ祖母の真似はできそうにありません。
私や私の母の生き方に影響を与えた、祖母(ハルエ)の生い立ちについて話をしたいと思います。祖母(ハルエ)が幼いころ、父親は事業やっていた関係で、生活はかなり裕福であったようです。習い事は、華道、茶道、書道、琴三味線、縫い物(裁縫)などで、何でもできました。若かりしのハルエの容姿は、とても美しく、品があり、非の打ちどころがないという位、完璧な女性であったようです。私が見ても、年がいった祖母の姿は、いつも背筋が凛として立ち、いつも、口元に笑いを含ませ、優しい時は聖母マリアのようで、厳しい時は毅然とした女傑になるという感じでした。生活は安定していたのもつかの間、事業をしていたハルエの父が、結核にかかり、最愛の妻(ハルエの母)は、実家の親と親戚が感染を恐れ、無理やり実家に連れて帰ります。父親の母(シマ)は、それに立腹し、父に離婚をするようにせまります。結局、結核で心身弱っていた父はそれを受け入れ、離婚が成立します。それから、父の結核は落ち着くのですが、最愛の妻との別れに悲観したのか、それから数年して亡くなります。結局、ハルエは祖母(シマ)の手で育てられることになります。ハルエは一人娘であったため、早くに婿養子(私の祖父(シンゾウ)・石川県の庄屋の次男)をもらって結婚しました。そのシンゾウが、あまりに頼りない男だったので、ハルエの祖母シマは、ハルエに何かあっても将来困らないように、自立の道(鍼灸師の資格)を取るように勧めます。シンゾウは猛反対をしましたが、ハルエの祖母(シマ)は、「反対するならこの家を出て行ってくれ」とせまり、シンゾウの反対を押し切って資格を取らせます。すでに乳飲み子がいた中での資格取得は、夜中を徹した勉強で大変だったようです。その後、ハルエは、両親のいなかった環境で育った寂しさや精神的に満たされない夫婦生活の中で、信仰という道に入っていきます。宗派にこだわらず、高名な高僧の話を聞きに行ったり、素晴らしい信仰の話が聞けるというところには、すすんで出かけていったようです。そのような中で、自分なりの解釈で悟りを開き、それを、悩んでいる人たちに聞かせていきました。私が物心ついた時には、祖母(ハルエ)のもとには祖母を慕う多くの方たち(信者)がおられました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当時まだ幼かった私の母(ハルエの長女)から聞いた、「シマのおばあさん」の往生私の母から聞いた話ですが、ハルエは鍼灸の仕事や信心の話を聞きの来る人の対応で日々忙しかったため、シマさんはかなり年がいったおばあさんだったけど、毎日、掃除洗濯ご飯炊き、自分達ひい孫の世話などの家事全般をこなし、高齢でありながら体を横にしたとことを見たことがなかったそうです。その、シマさんがある日、「少し疲れたから横になるね」とお昼寝をしたそうなのですが、それからしばらくして。コトという音がして、ハルエと私の母が駆け付けた時には、息が切れていたそうです。眠っているような穏やかな顔の大往生だったそうです。後で見た衣装ダンスには、手縫いの死に装束がすでに用意されていて、ハルエはそれを抱きながら号泣したそうです。シマさんは、生涯を孫のハルエの為に、つくし切った生き方をされました。シマさんは、ハルエと母親との縁を切ったのは自分であると思っていたのか、自分が死んだあと、頼るものがいなくて困ったことがあったら、母親(すでに再婚していた)を頼っていいよと伝えていたそうです。ハルエの母親は、シマさんが亡くなった後、ハルエに会いたいと度々連絡をしてきたそうですが、ハルエはシマさんを思い、筋を通すため、一度も会うことはありませんでした。
「ハイ」「ハイ」のはい上がり今回は、直接祖母から聞いた話ではなく、祖母の教えを聞いてきた母から聞いた話をしてみたいと思います。テレビやユーチューブなどで、預言者の話や占いが人気です。未来が分かるなんて、すごいことだし、そんな未来が見えるような人間に憧れる人もおられるかもしれません。しかし、今までの大きな予言に関していえば、たまに当たったと無理やり解釈されることもあるのでしょうが、圧倒的に当たっていないことの方が多いような気がします。占いもメンタリストではないですが、姿や言動の少ない情報から、多くの推察ができる方なら、そこそこ言い当てることは可能のような気がします。宗教などでも、あやしい宗派によっては、占い師のように「このままではあなたは不幸になる」「あなたは何か(悪霊)にとりつかれている」とか、預言者のように「この教えを聞かないとこれから起こる天変地異の禍から救われない」とか人の恐怖を利用して勧誘することもあるようです。(そのような宗教に騙されないようにしてくださいね)多くの方が誤解しておられるのは、「災い(不幸)は、外的環境から起こる」と考えていますが、「不幸は外的環境(災い)とは関係なく、内的環境(心)から起きる」のです。したがって、占いや、預言、ある一部のあやしい宗教、のように、未来が見える、災いが避けれる、悪霊を取り除ける、これはこれで、本当の話であればそれなりに意味があるかもしれませんが、幸・不幸とはまた別の次元の話なのです。占いや、預言、ある一部の宗教、を信じれば「外的環境が改善され幸福になる」ということはありません。あったとしたら、それはたまたまであり、よくよく考えれば「外的環境によってすべての方が幸せになる」ということは現実的ではないことはすぐに分かります。なぜなら、人間は必ず死を迎えるし、天災は必ず起こるし、国どうしの主義、思想、宗派が原因で起こる戦争もどこかで必ず起きているし、社会生活の中で個人の考え方の違いの摩擦も起きるし、家庭内のもめごとや、貧富の差や病気かケガなど外的環境が自分の思い通りになることは、ほとんどないからです。そうであれば、人間はどのように生きれば幸福感を得られるのか(不幸と感じないで生きられるのか)それは「外的環境に影響されず、幸福感を感じる心になる」ことです。さらにその先を言えば「外的環境にかかわらず、淡々とそれを受け入れ、(幸福や不幸という感覚も超越して)精いっぱい今を生きることが出来るようになるため」です。私の母が、よく話をしてくれたのが、皆さんよくご存じの「花さかじいさん」の物語です。(この物語の作者の趣旨と祖母や母が伝えてくれた物語の解釈は違うかもしれません)隣の爺さんから逃げてきた犬を飼って、その犬が「ここ掘れ、わんわん」で小判が出てきます。それを見た隣りのじいさん、その犬を借りて、土を掘ったらゴミだらけ。犬を殺してしまいます。悲しいけどそれを受け入れ、犬を埋めたところから出た苗木を持ち帰り、大きく育った木で臼を作って、臼をつくと小判がザクザク。それを見ていた隣の爺さん、臼を借りて、臼をついたらまたゴミがでる。臼を燃やしてしまいます。おじいさんはその臼の灰を持ち帰り、木に撒くと桜の花が咲いた。周りの木に撒くと桜が一面満開に、それを殿様が見て喜ばれ褒美をいただく。それを見ていた隣のじいさん、灰を借りて殿様の前で撒くと、その灰が殿様にかかり、お咎めを食らう。という物語です。母は、善良なおじいさんは、起こるすべてを受け入れ、「はい(灰)」「はい(灰)」の這い(灰)上がり。「起こることすべてに「はい」と素直に受け取り、今を全力で生きる。これが大事とこの物語は言っている」とよく話してくれました。以前映画で「YES MAN]という映画を見たことがありますが、すべてに否定的な主人公が、「YES]と、すべてを受け入れることで、人生がかわるという内容でした。祖母からの教えは、「まずは、自分に起こることをそのまま受け入れ、そのうえで、自分の心が楽になる(心がおさまる)より良い選択をして、それを淡々と行動に移す」これができるようになるための修行が、人の生きる目的であり、道であると教えてくれました。※申し訳ありませんが、この神様のお話は、すでに亡くなった祖母一個人の考えなので、このブログに関しての、ご批判や苦情はご容赦くださいませ。また、この内容についてのお問い合わせも、当人がすでにいないので、お答えできませんのでご理解ください。
【相手を拝む】自己中心で理不尽な言動であなたを傷つける仕事仲間、同級生、ご近所さんなどに腹が立つことは、誰でもあると思います。そのような相手は、可能なら避けて通るのが正解です。ただ、夫婦となると避けて通るのが難しいと思います。夫婦で言い争いなった時、相手の悪い性格を指摘して正そうと努力すると思いますが、ほとんど無駄に終わることが多いのではないでしょうか。結婚当初はラブラブでも、何年も一緒にと暮らしていると、相手の粗が見えてきて、「こんな人とは思わなかった」と腹を立てたり、イライラすることが増えてきたりします。私が幼い時に、祖母はそのような夫婦の悩みのあるお弟子さんに神様のお話を説いていました。祖母は当然女ですので、祖母の話を聞きに来るお弟子さんたちも、どちらかといえば最初のころは女性のほうが多かったのです。祖母に相談される内容の多くは、ご主人の浮気、酒癖の悪さ、博打、暴力の悩みでした。「どうしようもない夫と離婚したいが、子供がいるので踏み切れない。どうしたらよいでしょうか」思い悩んで相談に来られます。当時は、今のように簡単に離婚という風潮ではありませんでした。離婚のハードルは高く、専業主婦が多く、離婚してもすぐに働き口はなく、たとえ働き口があっても、当時は子だくさんの家庭も多く、子育てをしながら働くのはなかなか難しい時代でした。「堪能(たんのう・かんのう)」するという言葉があります。「堪能する」は、満足するという意味もありますが、「耐え忍ぶ力、能力」という意味で使うこともあります。祖母は「堪能」をお弟子さんに説いていましたが、祖母説く「堪能」は「不幸な境遇を我慢する」という意味とは違っていたようです。祖母の言う堪能とは、「我慢することや耐えるのではなく、自分の不徳を自覚し、今ある現状を素直にそのまま受け入れ、そして自分に与えられた試練として徳積みをしていくこと」と言っていました。夫婦というものは、必ずお互い同じ徳分(とくぶん・徳の量)の人が惹かれあって、結婚にまでいくそうで、縁がなければ結婚までには至らないそうです。従って、結婚相手は「自分の持っている徳分を見る鏡」とも言えます。徳分というのは、親や先祖から受け継ぐものもありますが、生まれて以降の生き方で増やすことも減すこともできるそうです。そして、祖母が言うには、たとえ離婚して別の人と結婚しても、多くは最初の結婚相手よりも徳分の低い人を自然と選んでしまうらしいのです。再婚相手が運よく、浮気、酒癖の悪さ、博打、暴力の悩みのない人を選んでも、それ以外の試練、例えば、自分や再婚相手の病気やケガ、女性なら再婚相手の仕事がうまくいかなくなる、子供の病気、非行、引きこもり、いじめ、事故、など、別の試練が与えられるらしいのです。そうなる理由は、神様から与えられた、夫婦間の試練から自分の不徳を自覚せず、逃避したことによるそうです。祖母は、悩むお弟子さんに、「神様は決して自分の徳分以上の人や以下の人とは結婚させるようなことはしません。そのようなダメなご主人と結婚することになった自分の不徳を自覚しなくてはいけません。離婚で逃げても何の解決にもなりません」「相手は、自分の不徳を映し出してくれる神様から与えられた鏡と思い、陰でご主人を、両手を合わせ拝みなさい。そのような試練を与えて自分を鍛えてくれるご主人と神様に感謝して拝みなさい、そしてご主人に優しく接し、つくしなさい」と膝詰めで説いていました。自分の不徳を自覚された、お弟子さんは、号泣しながら「私の不徳が自覚できました。自分や子供を不幸にするところでした。これから先生の言われるようにやってみます」と晴れ晴れした顔で言っておられました。相談に来られた奥さんが帰られた家では、今までと打って変った奥さんを見て、ご主人が驚きます。「トゲトゲしかった女房が優しくなった。文句を言わないどころか自分に良くしてくれるようになった。自分が女房にひどい仕打ちや苦労を掛けていたのはわかってはいたが、鬼のように文句を言う女房に対し、ひどく反発していた。家に帰るのも苦痛だった」「なぜこのような女房に変わったのか。不思議だ。最近神様の話を聞きに行っていると聞いた。女房を変えた人はどのような人なのか」と興味を持たれ、奥さんと一緒にご主人も祖母のところに来られるようになりました。祖母は、ご主人が来られたら、優しく接し、女の通る道だけでなく、男の通る道をわかりやすく説いていました。それに感化されたご主人も祖母の話を聞きに通うようになりました。ご主人も、祖母の話を聞きに来るにしたがって少しずつ変わっていき、家庭内が落ち着きを取り戻し、ご主人だけでなく、子供さんも連れて家族で祖母の家に来られるようになりました。そのような多くのお弟子さんの家族が祖母の周りに集まり、祖母の家はいつも誰彼が集まりで賑やかでした。私も小さい時には、お弟子さんの子供たちとよく遊び、楽しかった思い出が沢山あります。現在は、女性も社会進出が進み、経済力があり、子供は少子化で少なく、夫婦の間が合わなくなれば、すぐ離婚という選択をされる方が増えています。離婚して、何事もなく幸せに暮らせている、ということであれば何も言うことはありません。祖母の話は今の世情には合致しないと感じる方もおられるかもしれません。しかし、悩んでおられたお弟子さんの心が変わり、家庭が円満になり、幸せになられたお姿を見てきた私としては、祖母の話が古臭い話で今は違うとはどうしても思えません。私と家内は、いつもお互いが感謝を言葉や行動で伝えるようにしています。そのせいか私たち夫婦は37年間喧嘩をしたことは1度もなく夫婦円満です。※申し訳ありませんが、この神様のお話は、すでに亡くなった祖母一個人の考えなので、このブログに関しての、ご批判や苦情はご容赦くださいませ。また、この内容についてのお問い合わせも、当人がすでにいないので、お答えできませんのでご理解ください。
【心の段階】祖母がよく話してくれた「神様のお心にどの位近づいているか」魂の段階について話を聞いたことがあります。祖母によると人間の魂の精進の度合いによって、段階があり、その段階に名前がついているそうです。私もよく聞かされたのですが、聞かされた当時は、まだ幼かったので、よく覚えていませんでした。私の母も祖母からこのことはよく聞いていて、詳しくは祖母が亡くなった後、あらためて母から聞きました。注意:この魂の段階は、仏教の教えにあるのではないかと思います。また、この解釈が正しいかどうかも確認していません。亡くなった祖母から聞いた話を高齢の母を介して聞いた内容ですので間違っていたり、正確さに欠けるかもしれません。そのことをご理解の上でお読みください。下の段階から地獄(じごく):ウジ虫の世界餓鬼(がき):むさぼる畜生(ちくしょう)犬猫なみ修羅(しゅら)殺しあう、憎しみ合う人間(人間)常識的聖聞(しょうもん)仏の声を聴く縁覺(えんかく)悟りを開く菩薩(ぼさつ)慈悲の心佛(ぶつ)人たすけ(行動に移せる)なのだそうです。よくニュースで、幼い子供が親からの虐待で死亡していますが、これなどは犬猫よりも劣る段階の「餓鬼」といえるかもしれません。この段階は信仰の度合いを示す目安にもなっているようです。「聖聞」は人生に思い悩んだり、病に侵されたり、家族に不幸が起きた時、「神も仏もないと恨んだり、他人のせいにしたりしていたが、もしかしてら、自分のこれまでの考え方や生き方は間違っていたのではないか、自分に起こるすべてのことは自分の不徳にあったのではないか」とふと気がつく段階。「縁覺」になると、これまでの生き方や物事の考え方が自分の人生を狂わしていたことに気が付き、、物事の道理が理解でき、これからの生きる道筋が見えた段階。この辺りまで魂が高められると、神様に試されるというか、落とし穴があります。1~2年信仰して物事の道理が多少わかってくる頃が一番危険な時期になるそうです。他人の行動や考え方など、信仰に照らし合わせて、他人の未熟なところや欠点が見えてきます。相手の不足しているところが、よく見えるようになったことで、自分がとても偉くなったような錯覚をしてしまうことです。その時は自分の立ち位置をしっかり確認しなくてはいけないと祖母から教えてもらいました。相手の足りないところが見え始めたということは、まだ魂は未熟である、ということらしいのです。その理由は、裸の人を上から見ると、人に見られて恥ずかしいところは見えません。下から見ると、肛門や性器、鼻の孔など人に見られて恥ずかしいところが見えます。他人の人の見られたくないところ(不足や欠点など)が見える(わかる)ということは、自分の立ち位置は下にある、ということなのだそうです。その人の欠点は欠点として受け流し、良いところがしっかり見えるようになれば、自分の位置は高い位置にあるということです。「菩薩」になると、自分に向けられていた悩み事が、他人にも向けられ、人の痛みが分かるようになる段階。「佛」になると、人の心を助けるために、実際に行動に移せる段階です。相手には慈悲をかけ、自分は反省と感謝、人が助かるような実践行動ができる人を「佛の魂を持った人」と言いますが、私の尊敬するマザーテレサやガンジーのような人を言うのかもしれません。祖母は私に幼い時に、「(地位の高い)偉い人になるのではなく、尊い人になるのよ」とよく言っていました。しかし、祖母の期待もむなしく、尊い人には程遠く、今だ私は仏教でいう凡夫であり、申し訳ない気持ちです。だだ、人生の節目節目で、祖母の教えが頭に浮かんできて、反省させられるや助けられることがたびたびありました。その祖母の教えが多少なりともあなたの人生の糧になればうれしいです。※申し訳ありませんが、この神様のお話は、すでに亡くなった祖母一個人の考えなので、このブログに関しての、ご批判や苦情はご容赦くださいませ。また、この内容についてのお問い合わせも、当人がすでにいないので、お答えできませんのでご理解ください。
【お祈りの仕方】あなたは、神社仏閣でお祈りをするときに、何を祈っていますか。多くは病気の回復、家族の健康、宝くじの当選、受験の合格、就職、恋愛や結婚成就など神様にお願いしていると思います。私は、祖母の教えもあって、神社仏閣でお祈りをするときに、神様に自分のお願いをすることはありません。祖母からは、神様にこれまで生かされたことへの感謝、そして日々の心遣いが間違っていなかったか、自分の行動が、周りの人の少しでも助けになったか思い返し、反省することであると聞きました。神様を信仰していない人の多くや、信仰している人でさえ、多くの方が一生懸命、神頼みをしておられます。あまりに多くの人がいろんな神頼みをするので、神様も困っておられるのではないでしょうか(笑)。願いの多くは、ご自分のことやごく近い家族の事の願い事であると思いますが、残念なことに、神様がお考えになる幸福と、人間の願望である幸福は、ほとんど一致しないのです。したがって、あなたがいくら思い願っても、都合よく神様があなたの願い事通りにしてくださることはあまり多くないと思います。例えば、宝くじの当選を願う人は買った人すべてに対し、当選人数は決まっています。願った全員に当たることはありません。願いの強さで決まるわけでもありません。また、当選して、幸福になる方もおられるかもしれませんが、当選して大金を手にしたことで人間関係がおかしくなり、不幸になったという方もおられると聞きます。神様は人が願ったことではなく、その人のこれまでの心の持ち方と生き方に対して判断し、進むべき道を与えてくれているのです。家内の実家の話なのですが、兵庫県の長田というところに住んでいました。義父は、先代の会社の社長に仕事ぶりを認められ、「ずっと使ってくれていいから」と会社の事務所に使っていた一軒家に長年住まわせてもらっていました。かわいがってくれた先代社長が亡くなり、息子が後を継いだのですが、突然「会社で使うから家を出てくれ」言ってきたのです。義父は、今まで先代のために一生懸命会社のために身を粉にして働いてきたと自負していたので、多少腹が立ったようですが、「先代にはお世話になったのだから」と思い直し、文句を言わず出ていくことにしました。移転先は西明石に親せきがいたので、その近くに住むことにしました。しばらくはそこから会社にも通っていたのですが、その息子との折り合い悪く、会社も辞めることにしました。それから、1~2年して、あの阪神大震災が起こったのです。長田の住んでいた家は倒壊し、長田の町は火事で大方消滅しました。あのまま住み続けていたら、家内の家族の命はなかったと思います。突然、家を追い出された時は、なんと理不尽なことかと人間事案では思いますが、流れに任せ、文句も言わず家を引っ越したために命が助かり、追い出されて本当に良かったと感謝することになりました。何が良くて何が悪いのか、その時は悪いことや苦労したことでも、後になって「あれがあったから今の自分がある、あの時の苦労が今の自分を強くした」ということはあります。私も、事情や身情が起きた時、人間の価値観では神も仏もあるものかと嘆くことでも、ずっと後になってみれば神様が自分に与えた課題であったということに気づくことがあります。祖母は、「神様は、その人にとって超えられない課題は与えない」と言っていました。私の高校時代の先生が、ある宗教を熱心にしている友人の話をされたことがあって、「ある宗教を信仰している友人が、交通事故にあった。その時友人は『信仰していたのでこれくらいのケガで済んだ、神様に命を助けられた、ありがたい』と言っていた。あほらしい。神さんが本当にいるのなら事故にあうはずがない。だから宗教は怖い、友人は宗教に騙されている」と言っていました。私は、その友人が信仰していたから命が助けられ、そのくらいのケガで済んだのかどうかは、わかりません。しかし、ケガをしても、災難をポジティブにとらえ前向きに考えられるということ自体は悪いことではないと思います。自分はなんと不幸な人間だ、信仰していても神様は全然自分を助けてくれなかったと嘆くよりも、このくらいで済んでありがたいと思うほうが、よほどケガの回復も早いと思います。ただ、信仰というものは、ご利益信仰では意味がありません。自分の欲望を満足させるための欲が絡んだ祈りは、本来神様に失礼なことなのです。幸福も不幸も起きた現象で決まると思っている人が多いですが、幸福や不幸はあなたの心で感じる幸福感と不幸感なのです。その人の考えや価値観次第で決まります。神を信じ、神心に沿って、感謝し、反省の祈りを捧げつつ、日々人のためにと行動する人は、どのようなことが起きても神様の考える幸福感が得られるようになるそうです。したがって祈りは、自分のことは感謝と反省、そして、自分以外の人のために祈るときは「〇〇さんが幸福と思えるようにしてあげてください」とお祈りするのが、本来の祈りの方法であると祖母から聞かされました。※申し訳ありませんが、この神様のお話は、すでに亡くなった祖母一個人の考えなので、このブログに関しての、ご批判や苦情はご容赦くださいませ。また、この内容についてのお問い合わせも、当人がすでにいないので、お答えできませんのでご理解ください。
【神様の話】日本人は、無信仰の方が多い割に、熱心に神社仏閣でお祈りされる方は多いですよね。私はあまり信心深い人間ではありませんが、私の祖母は、とても信心深く、独自の教えを説いて人の心を助けていた人なので、小さい時に祖母からよく聞かされていた神様のお話をしたいと思います。難しい宗教学的、哲学的なお話はしませんので、安心して気軽にお付き合いしていただければ幸いです。まずは最初に、『この世に神様はいるのかいないのか』また『いるとしたらどこにおられるのか』という問題と、もう一つは『神様はどのようなお姿をされているのか』という問題です。あなたはどのように思われますか。いると思っている方の多くは、信仰している方、宗教団体に入って熱心な活動をしている方、そのような方は、当然その宗派の神様を信じておられると思いますし、姿は見えなくても神様の存在を否定される方はおられないと思います。いないと思っておられる方の多くは、「目に見えない神様がいるとは信じていないが、ご利益を頂けるのなら、いたらいいな」神社仏閣に行けば「損をするわけでもないし、とりあえず良いことが起こるよう手を合わせて拝んでおこうか」くらいの感じでしょうか。神様のお姿に関しては、輝く光のようなお姿、神社にある仏像のようなお姿、大きな大仏様の様なお姿、聖母マリア様のようなお姿、いろんなイメージがあると思いますが、はっきりこれといった答えはないようです。祖母は、神様の話を私によくしてくれましたが、私が生まれる以前に祖母が身近な人に伝えていた神様の話が近隣の人々に伝わると、地域のお寺の関係者に、異端児扱いされ迫害を受け大変苦労したと言っていました。祖母は幼い時に母親には生き別れ、父親には死に別れ、父方のおばあさんに育てられました。大人になって満たされない心のよりどころを信仰に求め、信仰を極めた人を求めて、教えを請いにどこにでも行ったと言っていました。その人たちから、いろんなお話を聞く中で、祖母は独自の信仰心を持つようになったようです。祖母の神様の答えは、『神様は、いると思えばいるし、いないと思えばいない。いると信じる自分自身が神なのだ』と。自分の胸を指さしながら、「神様はここにいる」と言っていました。私がまだ生まれていないころの話で、「自分自身が神などと、なんと不遜で高慢か、とんでもない人間だ」とその村で噂になり、祖母はお寺に無理やり連れていかれ、その村の多くの門徒の方に囲まれ責められたそうです。門徒の方たちに異端児扱いや今は禁句になったキチガイ扱いをされ、暴力まで受けようとしたその時、たまたまお寺に、京都の有名な高僧が講話をしに来られていて、奥の部屋で祖母と住職や門徒の方とのやり取りを聞いて、部屋から出てこられたそうです。「その方の言っていることは間違いない、この方の言っている深い味わいが分からないようでは、仏様を信仰しているとは言えない」と言ってくれたそうです。祖母を心配して付いてきていた友人は、胸がスーとした。祖母の教えは間違いなかったと、喜び勇んで帰路についたそうです。祖母の言っている意味は、私なりの解釈ですが「人間の心は、神にも悪魔にもなれます。仏にも強欲な鬼にもなれます。神様を信じ、神心をもって、生きている方は、心に神が宿っている」ということなのでしょうか。生かされている人間は、神様の創造物であり、神様の器であるともいえるのかもしれません。心は人間が自由に使えても、その心に神様を信じ、神様を宿さなければ、神は存在しないのと同じという意味かもしれません。したがって、祖母の言っている意味が正しければ、お寺にも、神社にも、神様はいないし、ましてや木で作られた仏像も神様ではない。そこで祈りをささげる人々の心の中に神様はいるということになります。現在においても、祖母の言っていることは、お寺や神社関係者や信者の方たちには認められがたく、怒られそうです。しかし、たぶん祖母は、お寺や神社が必要ないということではなく、神社仏閣は心の修行場所であり、仏像は、目に見えない神様を拝むよりも目に見えて目標になる形があったほうが祈りを捧げやすいため便宜上あってもよいと思っていたと思います。全人類の心が神様に満たされることがあるとすれば、素晴らしい世の中になると思いますし、逆に、これだけ世界が紛争にまみれている状態を見ると、これからさらに人の心は荒んで、自己欲にまみれ、滅亡の道を進むかもしれません。昔、「十戒」という映画の中で、海を切り開き神様に助けられたにもかかわらず、主人公のモーゼ役のチャールトン・ヘストンが山に神の教えを聞きに行っている間に、助けられた人々は神の心を失い、酒や色情に溺れ、黄金で作られた大きな像を崇拝し始めたため、帰ってきたモーゼを通し、神の怒りに触れるというシーンがありました。黄金の像には何の意味もないということの教えで、人間の欲には限りがないということを見せつけるシーンでした。結論として「神様は、神様を信じる人の心に宿り、神様の意に沿った生き方をする人は身分や貧富の差なく救われる」と言うのが祖母の教えでした。※申し訳ありませんが、この祖母のお話は、すでに亡くなった祖母一個人の考えなので、このブログに関しての、ご批判や苦情はご容赦くださいませ。また、この内容についてのお問い合わせも、当人がすでにいないので、お答えできませんのでご理解ください。
はじめまして! 広島で整体師をしております。1987年に開業以来、整体手技で自律神経失調症・手足の痛みとしびれ、など多くの実績があります。地元の皆様には、安心で安全な整体院として認知され、休日返上で頑張っております。当院の姿形療法(バランス反射整体)は日本の医療分野から抜け落ちた、「体の歪み」に特化した身体構造学の1つです。姿形療法は、多くの整体流派に影響を与えた整体技法です。姿形療法の歴史は古く、体の形を変えることに特化した整体なのですが、四肢(手足)の施術がメインになっています。人が手を使うときは、必ず肩甲骨が連動して動きます。足を使うときは骨盤が動きます。さらに、『肩甲骨・骨盤』は、『脊柱』と筋肉で繫がっています。したがって、手足が歪んでいる人は→骨盤や肩甲骨が歪み→脊柱も連動して歪むのです。ですので、手足の形を観察すれば、肩甲骨や骨盤の状態、脊柱がどのように歪んでいるか分かります。そして、脊柱の歪みは、脊柱から出ている神経の影響で、筋肉、関節、の痛みや内臓、自律神経の不調の原因になります。手足の調整の利点は、痛みのあるところを触らなくても骨盤、肩甲骨、脊柱の歪みを整え、無痛かつ安全に症状を改善できることです。多くの整体院で行われる、安易に首や腰をひねったり、背骨をポキポキしたり、痛いところを押す揉むといった、危険で悪化のリスクを伴う施術はありません。年齢を問わず、高齢者でも安全に施術できます。体の形を変えるには、歪みの法則を理解していなければできません。むやみに揉み解しても、マッサージをしても、ポキポキしても、体のどこの部分をどのように変えなければならないのか、どの筋肉が弱って、どの筋肉の緊張が強いのか、それを理解し、それに合った整体技法でなければ体の形は変えられません。医療機関で対処できない、体の歪みを変えることで痛みや痺れを改善させます。
治療家としてはいつも病気知らずで、患者さんには元気の気をいっぱい差し上げたいと思っています。しかし恥ずかしながら私自身、若い頃から多くの病気を経験しています。健康食品、各種健康法(体操法、呼吸法、食養生など)良いと思われる事はすべて試してやってみました。そのことで一つわかった事があります。それは、「弱った病気の体は出来るだけ余計なことはしないほうがいい」と言うことです。健康の原理原則は結構単純なところにあることが解かりました。具合の悪い時「腹六~八分で良く噛んで食べる」「冷えをなくす」「睡眠を充分とって体を休める」この3つのあなたの努力でほとんどの病気やケガは治ってしまうということです。そしてもう一つ、「体を整える」ことで気の流れをよくするということです。(【気の流れ】を元気または呼吸と言い換えてもいいです)私がいつも治療で心がけているのは、「あなたの治る力の邪魔をしないこと」「あなたの治る力をほんの少しだけ手助けすること」これだけです。私との出会いで、あなたのつらい痛みや生活習慣が改善され、あなたの人生がよりよい方向に変わるきっかけになればとてもうれしいです。