クリスマスシーズンになると 僕はこのおじさんを思い出す。

カーネルおじさん

その名は カーネル・サンダース。

ケンタッキーフライドチキンの創始者だ。

今でこそフランチャイズの創始者として有名人だけど カーネルおじさんは順風満帆の人生を送ったわけではない。

むしろ、失敗と苦難の連続だった。

6歳の時に父親を亡くし、母親が朝から晩まで働かなくてはならなくなった。

だからカーネル少年が3歳の弟とまだ生まれたばかりの赤ん坊の妹の面倒を見なくてはならなくなった。

簡単な料理を始めたのもその頃だ。

3人の子どもを1人で育てていた母親を少しでも楽にさせたいと
農場の手伝いに出たのが10歳の時。

あまりにきつくてやめちゃったけど 涙にくれるカーネル少年に母親は黙ってスープとチキンを与えてくれた。

学校を14歳でやめ(小学校6年生の学歴) 農場に行ったり、市電の車掌として働いた。

それから 年齢は足りていないのにキューバの軍隊に入った。

一兵卒で終わって大佐(カーネル)どころか、将校にもなっていない。

そして 鉄道で働くようになったけれど 機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員と職を変え 資格はないけど弁護士になり 保険外交員、商工会議所の秘書を経験し アセリンガスランプの製造販売をしたかと思うと フェリーボートで仕事をしたりミシュランタイヤのセールスマンをしたりと 実に40種以上の仕事を経験したんだ。

そして、30代後半になって独立しようと思い立ち ガソリンスタンドを経営するも 干ばつや大恐慌で農民に貸していたお金が回収できずに倒産。

それでも立ち上がり 違う土地に写ってガソリンスタンドを経営し多種多様なサービスで人気を博した。

そのガソリンスタンドの一角に出したレストランにも人が集まって カーネルおじさんはようやく成功の味を知ることになるわけだ。

なんてったってそのレストランの目玉商品はあのフライドチキンだからね。

火事で全焼したけれど、 客席を増やして再建したガッツはすごいとしか言いようがない。

ところが、その町コービンの町外れに新しい道路が開通し 車と人の流れが変わるとレストランには客が入らなくなった。

また、倒産だ。

カーネルおじさんは店を手放すことにしたが、 妻とも別れ、大切な子どもとも離れることになった。

負債を支払うと手元に残ったお金はほんのわずか。

初めて受け取った社会保険のお金はたったの105ドル。

それは1956年、カーネルおじさん65歳の時だった。

資本金がないから自分で店を出すことはできない。

この世から去ってしまおうかとも考えた。 だけど、おじさんの頭に母親の記憶が蘇ったんだ。

10歳のあの時、涙を流していた自分を 優しく家の中に入れてくれたお母さん。

そう言えば、あの時、お母さんは笑顔でいたけれど 何も食べてはいなかった。

カーネルおじさんにとって 母親の味はこの世で一番の幸せの味。

あの味を思い出しながら 時間をかけて編み出した12種類のスパイスを効かせた秘伝の味。

だからこそ、レストランの目玉商品にもなったのだし これがあれば何とかやっていける。

何より、自分のチキンを食べる時の人々の喜びの表情を見るのが私の幸せだ。

カーネルおじさんは美味しいフライドチキンの料理法を教える代わりに そのフライドチキンで得た収入の一部をもらう仕組みを考えていた。

実はすでに1952年に ソルトレイクシティのピート・ハーマンがそのアイデアを買ってくれていたのだ。

だから、このアイデアを広げよう。

食べてもらえば、このチキンの美味しさはわかってもらえるはずだ。

こうしておじさんは 圧力釜と調合したスパイスを入れた瓶を中古車に乗せてコービンの町を離れた。

おじさんは一軒一軒レストランを訪ね フランチャイズのアイデアをオーナーに伝える。

「すばらしいチキンのレシピがあります。これを売れば売上が伸びるはずです。 ワンピースにつき5セントを私にください。」

だけれど、冷たく鼻であしらわれるばかり。
「わかった、じいさん。とっとと帰りな」。

この間、車の中に寝泊まりし 食べるものは見本で作ったチキンだけ。

断られた数は1000回以上。

だけれどおじさんはへこたれなかった。

「寝るところがなければ車の中で寝ればいい。 なんてったって私はカーネル(カー寝る)だからね。」 ・・・とはいかず、 さすがに、追い詰められたカーネルおじさんは祈った。

「神様、どうか成功させてください。そうしたら、あなたに取り分は渡します。」

1007回目、1008回目、1009回目、
ずっと断られ続けたけれど ついにその時は来た。

1010回目に叩いたレストランのドアが幸運のドアだったのだ。

そこがコービルの町を出て初めての契約店だった。

これを機に契約は進み カーネルおじさんオリジナルのフライドチキンの味が広がることになった。

それからもカーネルおじさんはレストランを回り続け 味見をしてくれるお客さんと話をするのを楽しんだ。

そしてその時に白い上下のスーツを着ていたのは 宣伝費がないから、目立つ格好をするためだったんだ。

ほんとのところ、そのスーツしかなかったらしいんだけれどね。

こうした地道な活動が実って カーネルおじさんは一年目にして 七件のレストランオーナーとフランチャイズ契約を結んだ。

ケンタッキーフライドチキンの本拠地、ケンタッキー州のルイビルに移ったのもその頃だ。

そして、おじさんがワゴン車で移動を始めてから8年後、チェーン店舗は600店を超えた。

74歳になったおじさんはすべての権利を譲って世界各地のKFCを回り始めた。

人を幸せにすることに引退はないからって多くの慈善活動を行った。

学校や協会、病院、ボーイスカウトなどの活動に資金を提供する他、 孤児院の子どもたちに毎日アイスクリームを提供したり、 肢体不自由児のための基金を創っている。

3回訪れた日本では交通遺児との交流もしているんだ。

弁護士に、「もし今死んだら90万ドルの相続税が待っている」って言われると、 「税金で払うくらいなら、神様にお礼をしよう」と言って 倍の180万ドルをすぐに寄付したってんだから。

「神様、どうか成功させてください。そうしたら、あなたに取り分は渡します。」

そう交わした神様との約束を忘れることはなかったんだ。

そして、1980年、多くの人たちに別れを告げながらこの世を去った。

90歳だった。

カーネルおじさんがフランチャイズの仕事を始めてから営業のために走破した距離は40万km。

地球を10周する距離だった。

僕は思う。

おじさんは
「どんな困難も越えていけるんだよ」っていう 幸せのレシピを僕らに示してくれたんじゃないのかなって。

おじさん、今頃は天国から 自分の考案したチキンを食べて笑顔になっている人を見て おじさんも幸せになっているんじゃないのかなって。

そして、こうも思う。

6歳の時に父親を亡くしたのは、決して神様のいじわるではなかったんだって。

なぜって、そのおかげでカーネルおじさんは料理が上手になったのだから。

そして、人にサービスすることの尊さを知ったのだから。

***

カーネル・サンダースの名言。

カーネルおじさんの人生を感じます。

・失敗とは、再始動したり、新しいことを試したりするために与えられたチャンスだ。私はそう信じている。

・どんな失敗も、光明への踏み石となりうることを忘れてはならない。

・ベッドに入ったらあれこれ悩まないことだ。とてもつらかったコービン時代以来、私はずっとそうしてきた。

・私はただ2つのルールを守ってきただけだ。「できることはすべてやれ」「やるなら最善を尽くせ」。これが何かを達成するための唯一の方法なのではないだろうか。

・人は60歳や65歳になると人生これで終わりと思うものだ。しかし、その人の年齢は、自分が感じた歳、思い込んだ歳で決まる。歳がいくつであろうと、やれる仕事はたくさんある。

・人生は自分で作るもの。遅いということはない。

・人生や無駄だと思われたことなどを含めて、今までの人生で学んできたことを、決して低く評価する必要はない。

・何を始めるにしても、ゼロからのスタートではない。

・人間は働きすぎてダメになるより、休みすぎて錆び付き、ダメになる方がずっと多い。

・最も奉仕する者が最大の利益を得る。我が身の前に他人に奉仕せよ。

・いくつになったって、自分の人生をより価値あるものにするための努力をするべきだ。何の問題も怒らない人生が、素晴らしい人生なわけがないのだから

〔追記〕

記事を公開した後に見つけました。 ☟おじさんの自伝(PDF)を読むことができます。

~世界でもっとも有名なシェフ カーネル・サンダースの自伝~
おじさんのおすすめレシピも載ってます(・∀・)