3月10日昼過ぎ

「はい、もしもし」

「もしもし、岐阜大学病院の吉村ですけれど」

「あ、はい! Jでございます。先生お電話ありがとうございます」



自室のベッドの上で思わず正座になる。声はまだかすれてうまく出ない。


「あの後ね、うまくいったかなあって気になってたんだよ」

「はい、ありがとうございます」

吉村先生の声を聞いていると涙が出そうになる。



2日前の3月8日、岐阜大学病院脳神経外科に心臓手術成功の報告も兼ね、挨拶に行っていた。

先生方にはお会いできなかったが、僕の事を覚えていて下さった看護師さんにお会いできた。脳のフォローについて、吉村先生に確認して連絡しますと言ってくれたが、まさか先生ご本人から電話を頂くとは。


「お陰様で心臓の方も成功しました」

「最高だね」

「先生ありがとうございます」


一応フォローの検査はしていった方がいいという事で、4月15日にMRIを撮る事になった。今や脳動脈瘤だった事を忘れるほどに頭は何ともない。ただフォローは吉村先生に診て頂きたい。東京の医者じゃなくていい。岐阜なら黒兵衛にも会えるし。




3月14日

渡邊先生に無事に術後1カ月を迎え、帰京したご報告と御礼のメールをお送りした。
日中にもかかわらず、すぐさま先生から返事のメールを頂いてしまった。


「(中略)体が軽く病気を忘れていただくのがさいりょうです。」



日常に帰るのを後押しして下さるような温かい文面。


そうだ、いつまでも元心臓病患者という肩書のままでも仕方がない。それは病気を引きずっている事を意味する。一日も早く社会に合流しなければならない。




3月19日

文響社と水野さんのアトリエにご挨拶に行った。アポなしで行ったのでご迷惑を掛けてしまったかもしれない。水野さんは打ち合わせ中だったにもかかわらず、「Jも会いたいだろうから」と某映画プロデューサーにご挨拶させて下さった。

水野さんからの軽い紹介の後、

「脳と心臓、いかせて頂きましたJでございます」

とご挨拶した。声はまだかすれていた。




3月25日

12月26日以来じつに3カ月ぶりに出勤した。産業医との面談の結果、しばらくは時短勤務で復帰する事になった。休暇中フォローして下さったまわりに恩返ししつつ、徐々に慣れていきたいと思う。






忘れていた日常が、少しずつ僕の人生に入り込み、混じりあい始めた。







小さな出来事を思い出した。



中学3年の時の体育の授業だ。2人1組になって腹筋30回をした後、1分休んでからペアが手首に手を当てて1分間の脈拍測定、3セットを行うというものだった。


荒れていた僕の中学で、ペアの小田君は大人しく性格のいい子だった。僕は頻脈気味なのを当時から秘かに気にしていた。短距離はいいが長距離はすぐバテるというのもあった。


僕は腹筋をしてから、小田君が僕の手首に手を当てている時、















1分間ずっと息を止めていた。





それをしなかったら、クラス最下位くらいの脈の落ち着きの遅さだったと思う。
小田君は僕が息を止めていた事に気づいていたかもしれない。しかし一言も指摘せずにいてくれた。


慈恵の山田先生に指摘された通り、きっとあの時から軽度の血液の逆流はあったのだろう。それでも僕の心臓は必死に全身に血を送ってくれていた。






ありがとう、心臓。







手術を終えた今、心臓が静かに規則正しく打ってくれる、ただそれだけで僕の心を打つ。









ありがとう、心臓。




                                            平成25年4月吉日










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今回の闘病の記録












$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記

実家にて療養中、紙袋に入る黒兵衛。
家に置いてけぼりになるのが嫌で、紙袋や鞄に潜り込む癖がある。









そして、ついに
本邦初公開!

















$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記

12月25日、細菌性の脳動脈瘤との診断を受け、翌26日緊急帰郷。

翌日の岐阜大学病院入院を控えた12月29日、ふぐ料理に舌鼓を打つラッキーハートボーイJ


















を兄に持つラッキーブラザーボーイ。

ちなみにこの時、ラッキーブラザーボーイは風邪気味だったのに、ふぐだったので強引に来て顔色がひどいことになっている。













$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記

岐阜大学病院12月31日の夕食、年越しそばに海老フライ。

結構豪勢なのにびっくりしました。確かこれ一食260円なんですよね。恐ろしいコストパフォーマンス。慈恵医大第三病院も金沢大学病院も食事はとてもおいしかったです。

















$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記

爺カーディガンを羽織って手術室に入る直前。写真には映っていないが、お尻には少量のウォシュレットの水が貯水されている。なおこんな緊迫した場面なのに、観光気分で写真を撮ったのはやはり母。
















$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記

リハビリで病棟を歩く。心電図計を持って。















$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記

弟と。

















$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記

何のお断りもなく、人様に向けて脇を大開放する無礼をお許し下さい。ただ、臭いは食い止められているはずでございます。

術後1カ月の傷の写真。脇の下にダ・ヴィンチのアームが入った4か所の傷痕と、ドレーンが刺さっていた2か所がかさぶたになっている。右腕を下ろすとほとんど目立たない。

ドレーンの痕は乳首のようで、乳の多い動物の雌に近いかもしれない。人間ではないがギリ哺乳類のラインは保っている。















$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記

病院に置いてけぼりにされた母の好物。









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皆様、ありがとうございます。Jでございます。とうとうこの時が来ました。術後2カ月を経た今、体力はまあ戻り、痛みもなく右脇側がたまに軽くつねられる程度の感覚を覚えるまでに回復しております。

一時は心臓弁膜症と細菌性の脳動脈瘤と二股かけてしまいましたが、お陰で(?)共に僕の元を去ってくれました。

長いようで、やっぱり正直途中何度も長いなと思いましたし、いくら馬鹿な事ばかり考えている僕でも、これは相当ついてないなと思ったりもしました。

ただ、いつかは死ぬんです。

痛みと苦しみはできるだけ回避し、流されず必ず自分で納得して決断し、そしたらあとは僕が決める事じゃない、ってのが基本スタンスでした。一番の冒険は、意外に『「東京医科歯科大学病院 根本先生」と書かれた診療情報提供書を持って岐阜大学病院へ行ったこと』かもしれません。年内の診察も目的にあったとはいえこの行動は周りからも驚かれました。

でも、今生きていられています。

また、右脇に傷の痕はありますが、はっきりいってリアルに僕を強くしてくれる、体から外れない勲章です。何の引け目もありません。

お陰様で以前よりさらに緊張しなくなりました。日常生活で絡む中で僕より修羅場くぐってる人って基本いないんで、そう考えるとまあ温いというか、負けない、助けて頂いた方々の為にも負けられない。闇が連れてきた光です。

皆様が終始温かいコメントをお寄せ下さり、僕も闘病記を書く事が楽しみな毎日を送る事が出来ました。大変ありがとうございました。

一方で、深淵に下りないと描けないものがあると学びました。脳梗塞時、吉村先生の手術、術後の渡邊先生との再会、これらはやはり僕の中でも大きな、かけがえのないものであり、拙いながらそれは文章にも表れたかなと思っております。逆にこれらを超える事は今回の闘病の枠の中ではできないと思っています。またすぐに大きい病気になれば別ですが、それはそれで目の肥えた皆さんにはそろそろ飽きられるでしょうし、(笑)

















しばらく健康でいさせて



お願いだから




本闘病記は『一般の人も楽しんで読める』というのが一つの核です。
また僕自身他の方の闘病記を参考にさせて頂いたお返しとして、似た境遇の方に対して一つの例は示せたかなとも思っています。こうやって世の中回っていくんですなあ。

皆様の時間をいたずらに奪い続けるわけにもいきません。しかも大半は水野さんのブログで紹介頂いたがゆえに読んで下さっている方々です。


今の僕は今回の経験(皆様とやり取りさせて頂いたお陰でもあります)を通じて、内側から湧いてきた企画を早く形にしたいという強い思いに駆られています。

Aからは、死に掛けて成功するって法則があるから大丈夫だ、というよくわからない応援の言葉を貰っています。

今回で一区切りですが、次のエントリーはしょうもない話になるでしょう。
そうならず、できれば良いご報告ができるよう頑張ります。




皆様も、自分だけの困難を常に胸に抱えながら、それでも目の前の日常を生きてやりましょう。


ラッキーハートボーイJ