2月13日午後

「…Jさん、Jさん5時ですよ。終わりましたよ」


…ここは、ICUか。さっきまで話してた麻酔科の可愛い看護師さん達が一人もいない。喉の奥まで何か入っている。声が出せない。人工呼吸器か。

足の数メートル先に両親が立っているようにも見えるが、はっきり分からない。脇へは来ないのか、それとも既に一度来てくれて離れたのか。柱についた時計が見える。時刻は5時ちょうどくらい。痛みは、今のところない。ちょっと目の周りが濡れている、少し泣いたのだろうか。

目覚める直前に夢を見た気がする。特別な内容じゃない。いつもの起きてすぐ忘れる夢だ。

人工心肺使って心臓止めて、一応臨死体験になるのだろうか。やっぱ無か。暗いっていう感覚すらなかった。自由になったら調べてみよう。意識失うコンマ数秒前までと目覚める直前の夢(内容は忘れたけど)以降の記憶がバッチリある。


「Jさん、お目覚めですか」

瀬口先生、田中先生が話し掛けて下さった。お二人とも笑顔だ。
声は出せず、首を縦に振ることもできない。見つめるしかできない。

「Jさん、今人工呼吸器が入ってるんで声出ないと思いますから、話だけ聞いて下さいね。今は麻酔が効いて痛みもないと思います。ただこれも切れてきますから、痛みを感じたらナースコール押して下さい。痛み止めを背中の針から流しますからね。右手に握らせておきますからね。人工呼吸器は8時になったら外しますからね」

ああ、お二人とも本当に優しい先生だ。笑顔に偽りの影が差さない。
できれば寝てしまいたいけど眠れない。


右手は自由だ。左手は小手みたいなカバーと筒状の物を握らされてグーの形でテープ固定されている。恐らく手首動脈へ針が刺さっているから。あと左肘の内側の点滴は5袋くらい薬剤が同時使用されている。鼻にもチューブが入っている。尿管も入れられて、オムツらしきものを履かされている。

手術は無事成功したんだろうか。今のところ大丈夫だけど、ドラマでは容体が急変したりってのもあるから怖くないと言えば嘘になる。

足元の向こうで誰かの話し声が聞こえる。姿は見えない。

「若いんだから早く人工呼吸器抜いて差し上げろ」
「8時に外す予定です」

誰だろう、この頼りになる天使は? たぶんあの声は山口先生だ。

ああこの病院に掛かることができて本当に良かった。人工呼吸器は確かに苦しい気がする。

ゆっくりゆっくり時間が過ぎる。



瀬口先生が話しかけて下さった。

「Jさん、人工呼吸器外していきますね。代わりに酸素マスクを付けますからね」
喉の奥まで入っていた太い管を抜かれた。楽になった。

「ありがとうございます」

「声が枯れてしまっていますね。人工呼吸器が入るとどうしてもこうなる場合があります」

僕の声はほぼ全く出なくなっていた。

麻酔が切れてきたのか、メスが入った右脇と息を吸うと胸が痛い。










痛いのか、手術って。














Jは1つ学んだ。




ダ・ヴィンチについて調べるにつれて、これは無痛だという思い込みが広がり、術前の看護師さんの説明で無痛なわけはないと現実に戻り、でも僕の場合は無痛で済むかもしれないと再度思いこんでいた。


人工呼吸器を外され、少し動けるようになった記念にナースコールを押した。声が出ないので、手で書きたいというジェスチャーをしたら看護師さんが小さなホワイドボードとペンを渡してくれた。


「今日も長い髪がお似合いですね」と書いて看護師さんに見せた。覚醒後ICU一発目のボケである。小さなジャブではあるがウケるかと思ったら、

「ん、今日も!?」

と脳、記憶に問題が出ているかと疑われてしまった。















ICUでボケは不要である。

ボケるICU患者て。





「Jさん、鼻のチューブを抜きますね」

先生と看護師さんが太い注射器のようなものを鼻のチューブに取り付けて吸い出した。おうど色っぽい液体がみるみる溜まる。ひょっとして痰ですか、どこにこんなに溜まってんの?という驚くべき量。僕の肺(恐らく)に溜まっている痰のようだ。太めの注射器2本分くらいを吸い出し、鼻からチューブも抜かれた。

「Jさん、痰がかなり溜まっていますから、できるだけ咳などして痰を出して下さい」

うげ、あんなに抜いたのにまだ溜まってんだ。声が出ないので頷く。

咳をするのは苦痛を伴う。ダ・ヴィンチじゃない場合はもっと辛いらしい。頑張ってちょっとずつ咳をして痰を出すが、全然なくなる気配はない。


時折傷口周辺に激しい痛みが走り、ナースコールを押す。スーパーの握り寿司の魚型醤油ケースみたいな容器が背中からの管にくっついており、それを押すと中身の痛み止めが流れる仕組みになっている。神経ブロックと呼ばれるものだ。

また手術で生じる体内の廃液を逃がす2本のドレーン(右胸腔、心嚢)が右脇に刺さっている。ドレーンに繋がった2つの容器の中身(血と組織液かな)を数時間置きに回収するが、この時に激痛が走る。この作業は一番怖いものだった。

結局手術当日は一睡もできずに終わるのだが、夜12時頃だっただろうか、看護師さんが交代した。こんな時間に看護師さんの交代があるんだとちょっと驚いた。

ICUで担当して下さった2人目の看護師さんはとても記憶に残る方になった。名前を覚える余裕がなかったのが悔やまれる。黒髪で綺麗な人だった。ICUの看護師さんは全般的に意識が高かったと感じたが、抜きん出ていたと思う。

ナースコールを押そうか迷う程度の苦痛の時、看護師さんを眺めていると僕の目を見返して、「辛い? 痛いの?」と柔らかく声を掛けて下さり、痛み止めを流して下さった。目線からすら何か読み取ろうとして下さる方だった。

また、「Jさん、床ずれにならないように体の向き変えますからね」と体の向きを極めて丁寧に変えて下さった。極めてというかむしろ極め過ぎであり、これがまたうまくて痛くないのである。この後、別の看護師さんにやって頂いた時は痛すぎて断念した。

末期の患者が、看護師さんに遺産を一部相続すると遺書に書くケースを聞いた事があるが、分かった気がした。気遣いが家族の自分に対してのものより、階層レベルでかなり上回っているのだ。仮に自分の遺産目当て感が出ている親族を抱えながら、一方でこんな素敵な看護師に当たったら僕もそうするかもしれない。


「遺産の
3割を 金沢大病院ICU看護師○○さん、
4割を 妻J子、
3割を 息子J.Jr、
に相続する」



とでも遺書に書けばいいだろう。












気掛かりなのは、僕の遺産は借金の可能性がある。
















看護師さんごめんなさい。









【天声素人語 第四十七回】 いい加減な扱いをしたらゆる三蔵法師

年長の家族にいい加減な扱いをしたら許されないでしょう。

あまりに度が過ぎると、遺産をわた三蔵法師になるでしょう。


ラッキーブッダボーイJ




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皆様、温かいコメントありがとうございます、Jでございます。仲のいい後輩が、コイツがまたボンボンでウケる奴なんですが、かなり可愛い(らしい)彼女に薦められて脱毛やら前歯4本の審美治療(インプラント)をしていると話してきました。これは彼女自身も既にしているらしく、「すごく美意識の高い子なんです」って言ってくるので、あー本当に辛い思いした事ないんだろうなあと思いまして。悩みの階層が浅いんですよね。で、僕の感染性心内膜炎が治療したと思っていた歯の根の下から罹った事、またインプラントは骨に金属刺すわけだから割とリスクがあるしつきまとう事、フツーに考えれば自分の歯でいる事がベストに決まってるってわかるはず、といった話をしました。すると後輩が一気に深刻な表情になり「俺終わった」と言ってきたので、「お前は終わりだ」と返してあげました。け、決して可愛い彼女を作った事に対しての嫉妬ではありません、Jでございます。