岐大病院退院以降、穏やかな日々を送った。
佐渡島から刺身を取り寄せてみたり美味しいものも食べた。毎晩弟とコメダに行った。



そして1月22日、約1か月ぶりに帰京した。



東京に戻り、平日は昼ごろサンマルクに行って読書したりブログを書いたりした。また夜も夕食後サンマルクに再度行って過ごした。岐阜にいた時との最大の違いはコメダからサンマルクになった事だろう。















場所が変わっただけのニートである。


あまりにも予想通り、帰った意味は特になかった。








意味がないと認めたくないので、Aと会ったり、水田と会ったりして過ごした。依然階段を上る時は辛いし、駆け足もできない。



何かしなきゃと、来たる金沢に備えて、ゾゾタウンでカーディガンっぽい羽織るものを買ってみた。
大失敗。
持っているマフラーと合わせて茶色にしてみたら完全にお爺ちゃんである。









$笑いはいのちのえいよう 心臓病体験記-お爺さん





しかし4000円強にしては温かい。まあ病院はお爺ちゃんが多いし、迷った挙句使うことにした。

ドヤ顔で堂々としていれば、そういうファッションなのかな、と世の中思わせたりできるものだ。というか、見た目とかどうでも良くなってきているのである。お爺ちゃんのファッション感覚である。



1月28日
貯血前日に金沢大学附属病院から連絡があり、保険診療でできるので一緒に麻酔科の受診、3D心エコー、3DCTを行いましょうとの事だった。ただその為に到着時間が早まり、東京駅午前6時8分発の『MAXとき』に乗る事になってしまった。お爺ちゃんの起床時間である。


夜、脳動脈瘤の完治祝いで松田、宮下、柴井、Aが飲み会を開いてくれた。明日以降またしばらく東京には戻らない。


「しかしJ、去年は厄年だったな」

「カテーテル刺した場所は傷が残ってるのか」

「頭切らずに済んでよかったな」

「J、今頭にプラチナ入ってんだ。スゲーな」

やはり身近にこれ程の大事になった人間がいない為、名古屋の友人同様にみんな興味があったようだ。


「J、今後どういう風に接していいか、いまいち良く分かんないよ。頭はたいたりしてもいいの?」
今まで一度もはたいた事などないくせに、柴井からとりあえずな質問をされた。

柴井は両親東大で本人落ちこぼれのパターンで、タバコにいつも英単語と意味を書いたメモを挟んで覚えようとしている。社会人になった今もコンプレックスの影は時折覗く。だから友達になれたし、そういう奴の方が付き合っていて面白い。会社では30代でリストラ候補らしい。相当イケメンだが人間が薄っぺらい為、すぐにフられる。


「はたかれた事今まで無いけど、引き続きはたかないで」
と返した。


次第に僕の脳血管内治療の話からどうでもいい話題へと移っていった。

Aが、「柴井は、顔以外見ないって女たまにいるから、それ見つけて結婚した方がいいよ。それしか無理だろ」と真剣にアドバイスしていた。2人は15年以上付き合いのある腐れ縁なので、Aは結構踏み込んだ事も言う。柴井は2浪でAが年下である。


中盤以降は馬鹿話しかしなかった。しかしこういう話に興じていると、忘れていた健康だった時の感覚が一段深い階層で呼び起こされる気がした。


そうだ、もう3分の2は終わったんだ。12月以降ビビッていた脳動脈瘤破裂による突然死ももうない。正直死ぬのはまあ仕方ないとして、バットで殴られたような激しい痛みが突然走るというのが怖かった。心不全も何とか起こさずに手術まで臨めそうだ。


慈恵を退院した時もお祝いして貰ったのに、またも僕が奢って貰う形になった。
なんか悪いのう。

















と言いつつ爺カーディガンで

か弱さアピールして、

皆が奢りやすくしたわい。








【天声素人語 第四十回】 縁起なさい

貴様たちはいつも素でしょう。

そうではなく時と場合により様々な役回りを演じなさい。

弱者を演じれば徳を失うかもしれませんが得します。


ラッキーブッダボーイJ





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皆様、ありがとうございます。JIJII、Jでございます。ようやく色んな事が少しだけ落ち着いてまいりました。これからは需要がない、見当たらない、どこにもないにかかわらず、少し更新頻度を上げていければと思っております。春めいてまいりましたね。皆様、世間が浮かれ勢いづいてまいります。自分一人ではなかなかうまくいかない事も、世間の浮かれパワーを利用すればうまくいったりします。皆様が心身健康たらんことをお祈りしております。