10月29日。
主治医の山田先生が診察でいらした際、感染巣の抜歯はネットで見つけたα歯科医院でセカンドオピニオンを聞きたい旨を話した。

「えーと、それは個人歯科医院ですか?」

「はい。ただ根管治療のプロと謳っていますので、こちらの歯科でも抜歯だと診断されたら抜歯します」

「…なるほど、分かりました。α歯科医院への診療情報提供書を用意するよう伝えます」

その後α歯科医院に電話をかけ、事情を話し診察の予約を取った。
割と混雑しているようで5日後となった。



この頃、1日6回の点滴にも慣れっこになってきていた。ただペニシリンGは非常に強いらしく、大体平均して3、4日すると冷やっとする薬剤を流されると針周辺に激痛が走るようになった。そうなると針の交換である。これが曲者である。


「ちょっと血管が硬くなってきちゃってますね」
と保険のように前置きがあるかと思うと

「少しだけちくっとしますよ」
と先生が刺すも、こちゃこちゃやったあげく

「うーん、すみません。うまくいきませんでした」
とやりなおしになる。このこちゃこちゃされるのがチクチク痛いのと、その微調整でうまくいった試しがない。さっと諦めて刺し直してくれた方が助かる。


針を刺す先生はクジ引きみたいなもので、一度だけ阿部寛みたいなかっこいい先生に刺された事があった。本来少し痛いはずのルートの注射にも関わらず川のせせらぎのような全く痛くないものだった。




僕は思わず


「医龍ってお呼びしてもいいですか?」

と聞いた。



「これは基本ですから。こんなので呼んで貰えるなら医者は苦労はありませんよ」



「ですよねえ」

とお戯れをしたのが懐かしい。




あの時の彼は今頃いったい何をしているんだろう。まだ医者を続けているのだろうか。













続けているに決まっている。先月の話だ。






そして迎えた11月2日金曜日。入院して3週間を前にして、初めて慈恵医大第三病院から外出する事になった。


朝、
「Jさん、もう前回の血液培養検査で菌は出てませんからね。順調ですよ」

「本当ですか」
思わぬ嬉しい報告。毎週火曜日が血液培養検査になっていたが、ついに菌が検出されなくなったらしい(完全に0にしなければならないので点滴は続く)。


「今日は朝の点滴一回だけで大丈夫な薬剤にしてあります。ただ無理はしないで下さいね。インフルエンザも流行ってますから、出る時は必ずマスクして下さいね」

S先生からの親切な忠告を受け、マスクをして出かける事にした。

針も抜かれたので、身体はひさしぶりに健常者風だ。ただ服が入院日当日着てきた楽なパーカーだったり、ちゃらんぽらん気味だ。コーディネートの微妙さから、何というか引きこもってそうな、くたびれたパーカーに見えてしまう危険性がある。この疑念は晴らさないといけない。


出掛けにナースステーションで

「気をつけて行ってきて下さいねー」
と看護師から声を掛けられた。チャンスだと思い、


「頑張って行ってきます。恰好がちゃらんぽらんですが」
と、普段はもっとおシャレなんだと匂わす。




「いーえ、すごく素敵だと思いますよお」












伊勢丹で試着しているのかと錯覚させる返しである。






久しぶりに慈恵医大第三病院の玄関の外に立った。特に感慨はない。ただ駅に行く、電車に乗る、新宿で乗り換えるといった一連の動作が信じられないくらい疲れた。

ようやくついた港区のα歯科医院で、α先生とお会いした。




「はじめましてJさん。αです」

「宜しくお願いします。Jです」
割とキャリアを積んでそうな先生で安心した。


僕は、
・感染性心内膜炎の治療中であること

・感染巣と疑わしい歯を抜歯するよう言われていること

・できれば抜歯したくないこと

・歯科治療も侵襲を伴う場合、抗生剤を投与しながらやること

・抜歯せず心内膜炎再発を抑える治療が可能なら、全てこちらでお願いしたいこと
を伝えた。

まず上下の歯全部のレントゲン(歯科CT?)を撮られた。その後診察台に寝させられ、さらに問題の歯のレントゲンを様々な角度から撮るという。α先生曰く、こうするとクラック(ひびわれ)や傷に気付きやすいらしい。




ピーッピーッ、ピーッピーッピーッピーッ、ピーッピー



「ちょ、ちょっと」(心の声)









光線銃の戦争ごっこ?




いくら歯科のレントゲンが低リスクとはいえ、さすがに医療被曝が怖いと思った。



できあがったレントゲンを見ながらα先生が説明し始める。

「歯の状態は悪いですが、抜歯をせず根管治療する事は可能だと思います。」
さすがプロを謳うだけはある。ただ引っかかる点は確認しないといけない。

「本当ですか!慈恵では溶けている範囲が広すぎると言われましたが大丈夫でしょうか?」

「骨というのは治療して菌を綺麗にすれば少しずつ戻ってきます」

「ただ菌を0にはできないと思うのですが、心内膜炎の再発は大丈夫でしょうか?」

「確かに0にはできないけれども、白血球など抵抗力で抑え込めるレベルまで減らす事は可能です」

「本当ですか!」

「レントゲンを見る限り、あまりうまい神経の治療をして貰ってるとは言えないです。やるなら今入っている土台を外して、中をきれいにして治療する事になります。」

「はい」

「これに1、2カ月かかります。金額は24万円程かかります。それで駄目な場合は歯の根を切ります、これが5万円。それでも歯を残せない場合は最終手段ですが抜歯してインプラント、この場合は通常のインプラントの金額より5万円のお値引きします」


前に掛かっていた歯科よりさらに高い気がするな、と思いながら尋ねる。
「これは保険は効かないんですか」

「当然です」




24万か。

金額がいかにも高いなと思いつつも、






永久歯の抜歯を回避できるのなら









隠れてる奥歯が歯抜けのレレレのおじさんを回避できるのなら












隠レレレのおじさんを回避できるのなら





仕方ないのかと思い
「わかりました。お願いします」
と一旦答えた。

「ではJさん今日は以上です。」


帰り際に僕はネットで知ったフッ素洗口薬ミラノ―ルを処方して欲しいとお願いした。α先生は少し慣れない反応をしたように見えた後、

「院外処方で出して」
と歯科助手に話したが、

「出した事ないので値段が分かりません」
と返されたりしていた。時間がかかりそうだったので、

「次回で構いません」
と伝え、会計に向かった。


診察費4,500円を支払った後、
「次回は11月9日です。次回から根管治療に入りますので、初回時に24万円ご用意ください」

「24万」

「はい」
つくづく高いなと思いつつ、

「はい、分かりました」
と答え帰った。


帰りは電車で貧血を起こしそうになったりへとへとだった。病院のベッドが一番安心だ。




ようやく着いたベッドで一息ついて少し考えた。


4週間(28日)の入院とその高度な内容(心内膜炎・脳梗塞の治療、付随する検査)とから、僕は入院費用を100万以上とみていた。高額医療の返還等があろうが少なくともまず30万は用意しなければならない。不満は全くない。こっちは命を文字通り助けて貰った。その命を救って貰った30万とα歯科医院の24万+α(初回分以外にも掛かるだろう)が釣り合うとは僕には思えなかった。



というかそもそも大学病院に4週間も入院して、そこの歯科で抜歯って言われてセカンドオピニオンは個人歯科に行きますって、客観的に見たら「バカ」の一言なんじゃないかと猛烈に思い始めた。

ああ、いつもの思い込みで動いて大失敗するのをこんな状況下でもやってしまった。


まもなくS先生がやってきて声を掛けてくれた。

「Jさんどうでしたか?」

「せ、先生。大学病院に入院しといて個人歯科に掛かるってのはやっぱりなしでした。大変申し訳ありませんが、再度東京医科歯科か東京歯科に掛からせて頂けないでしょうか?」

「医科歯科行きますか? わかりました」

今日セカンドオピニオン行ったばかりのこんな絡みづらい患者にもS先生は優しかった。





しかしこのとんちんかんな動きは、後に僕の歯科観に強い影響を与えることになる









と思いたい。






【天声素人語 第十一回】 動け

行動は何らかの結果を連れてくる。とりあえず動いてみよ。後から馬鹿な事をしたと思ったら親友に話して笑い話にせよ。