珍敷塚古墳1  - 初見で心ない見学者に遭遇 - | 蕨手のブログ

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珍敷珍暗
左:倉庫のような古墳の収納庫現状
右:91年に見学した時の壁画、ガラス越しで照明が暗いため色が悪い。初見当時の写真は残念ながら無くしてしまったが、大きな変化はない。

 次なる装飾古墳の真打ち、珍敷塚古墳を初めて訪れたのは日ノ岡訪問を1週間遡る1974年9月30日、友人と父の車で筑後川流域の装飾古墳を次々訪れた旅の途中であった。
 我々の車は吉井町(現うきは市)の水縄山麓沿いの県道151号線(装飾古墳街道と読んでいた)をゆっくりと進んで古墳の所在地を探していた。すると一台の車が道路脇に止まって、数人の集団が倉庫のような建物の入口を開けているところだった。ふと見ると、その倉庫の壁に取り付けられた説明版から、これこそが探していた珍敷塚であることが判り、大いに面食らってしまった。倉庫が古墳なのか?

屋形説明倉庫の壁に取り付けてある説明版

  どうやら裏の家で鍵を貸し出しているらしい。半信半疑の内に脇に車を止めて、我々も続いて中に入ると、中には壊れた石室の残骸らしい石積みと、背後の申し訳程度の土山が目に入り、この古墳がかなり破壊されていることを認識できた。
 
 左奥には更に一回り小さな木造の収納庫が立てられており(こちらの方が古く、外側の収納庫が後から整備されたことがうかがえた)、木戸に鍵が掛けてあった。大学生くらいの若い女性数人を連れた引率者らしい初老の男が錠前を外して観音開きの木戸を開くと、壁画の描かれた奥壁と何個かの側壁だけになった古墳の主体部が目に入ってきた。圧倒的な存在感で我々に迫ってくる壁画は赤と青で描かれているが、塗り残された地肌の部分も上手く使って3色の配色効果をもたらしている。

 呪術的な文様である靫、蕨手文が中心的な画題であり、その左右には叙事詩的な表現を示すと考えられる色々な文様が描かれている。シンプルな線を用いつつも、巧みな構成で様々な情報を盛り込んだその壁面は、次週見ることになる日ノ岡古墳とは全く違った意味で完成されており、現代抽象芸術を見ているようでもあった。
 
 ここに到達するまでに私は重定、塚花塚、日輪寺と3基の装飾古墳を観察していたが、どれも褪色が著しかったり、刻印が浅かったりと、壁画としては今ひとつの印象であったが、この壁画はまだなんとか全体を認識することが可能であり、色遣い、文様構成も素晴らしい。

 我々はしばしウットリとその壁画を眺めていた。それを突然打ち破って現実に引き戻したのは先の集団の突拍子もない行動であった。

 ガヤガヤ喋っていた女子中の一人が突然壁画を指でなぞったのである。戻ってきた指には、壁画の赤い顔料がしっかりと付いてきており、よく判らない感歎の声を上げつつ彼女らは倉庫を出て行き、引率していた男もそれを咎めることもしない。

 ポカンと泡を食っていた我々は思わず顔を見合わせた。「見たか?」「見た!」「あれ有りか?」「無い無い!」 小さいながらも文化財破壊の現場を目撃したことに気が付いた私たちは、ようやく気を取り直し、こみ上げてくる怒りを口々に出したが、すぐさま追いかけて叱責してやるほどには人生経験も勇気も欠けていた。

 その後は互いに愚痴をこぼして紛らわせるだけで、折角の見学が後味悪くなったのが口惜しかった。

 私は今でもこのときのことを思い出すと怒りと気まずさを覚えてならない。普通の人々がああやって無意識と無理解のうちに遺跡を少しずつ破壊していくのだろうなと思うと寂しい。この古墳こそはそのような中で、実際に数々の受難の果てに息も絶え絶えの姿で辛うじて遺存しているのである。

ここについても今後何回かに分けて解説したい。