佐賀市西隈古墳探訪の思い出 -オラが故郷の装飾古墳- | 蕨手のブログ

蕨手のブログ

ブログの説明を入力します。

西隈墳丘西隈墳頂部左 東南から見た西隈古墳の墳丘、二段構造をしているのが解ります。頂上の木のある部分に石室があります
右 墳頂部西側に開口した石室入口周辺の状況、竪穴式石室に近いような位置にあります



 以前簡単に紹介した西隈古墳を初訪当時を振り返りながら詳しく紹介しましょう。
 佐賀市金立町の西隈古墳を最初に見たのは1974年10月27日(日)のことでした。自宅に宿泊した数人の友人と一緒に、父の車に乗って訪問したと記憶しています。その2週前には、以前詳しく紹介した日ノ岡古墳、その前の体育の日には浦山や石人山、乗場等、筑後南部の装飾古墳を初見してきた、正に私達が最も熱くなっている時の探訪でした。
 当時の私はこの古墳には特別の思いを抱いていました。当時佐賀市は私の故郷であり、金立町には親の職場がありました。
 つまり「自分の故郷、オラが町の古墳」の思いが強かったのです。皆故郷の史跡名勝にはそういう風に考えるものでしょう?

 古墳は佐賀平野と背振山地の境目を東西に横断する長崎自動車道のすぐ南側、佐賀インターに近い丘陵地帯に築かれています。当時も今もそこに至る道は狭い曲がり道の連続で、特に古墳の周辺は道が狭く車でのアプローチは大変です。

 大きな民家のすぐ後に直径30mとかなり大きな二段築造の墳丘が見えますが、南側1/3程は削平されています。石室は大きな墳丘の割には非常に小さく、墳頂部に細長く低い構造で造られています。

西隈解説板西隈入口
解説板と玄門入口部、開口部の広さは30~40四方くらいでしょうか?とにかく狭い





 極めて初期の横穴式石室と考えられ、石人山や浦山古墳と同年代の、装飾古墳としては非常に早い時期に位置づけられるものです。しかし、中には立派な石棺が所狭しと納められ、その前面に線刻と彩色による装飾があるのです(残念ながら初見当時の写真は散逸してしまいました)。

 1974年当時は古墳傍の民家に鍵があり、板の扉を開けて中に入ることが出来ましたが、現在は鉄格子越しに覗くだけで入室は叶いません。観察も体を折り曲げて低く覗かないと不可能です(照明装備は助かりますが)。

 石室の入口は非常に狭く腹這いになっても通り抜けるのがやっとの広さであり、石室内も大きな石棺のせいでスペースは狭くせいぜい2、3人の入室が限度で、当時は交代しながら観察した記憶があります。

西隈石室西隈石棺
石棺が空間のほとんどを占める石室内とその装飾部分のクロースアップ、線刻文様が確認出来ましょうか?円文の中心孔はかなり深いので良く見えます。室内は据え付けの蛍光灯のスイッチを入れて見ることが出来ます







 石棺は非常に特異な形をしており、解説板では長持型と書いてありますが、構造は明らかに長持型ではありません。蓋石に長持型に典型の曲線屋根の特徴を残した横口式家型石棺と呼ぶのが正しいと私は思います。蓋石が蒲鉾状に隆起した形は少しユーモラスな印象を受けます。隆起部の両脇には縄掛け突起も付いています。

 不思議なのは石棺の横口が中心から左にずらして開けてあることで、珍しいものです。その理由を考えますと(私の推測では)遺体は右側に寄せて埋葬し、左側は副葬品等を置く(供物の取り替えも含めて)場所として作業性を考えたのではないかと思ったりもします。

西隈左側西隈右側
石棺入口両側装飾部分のさらなるクロースアップ、これなら円文や連続三角文が確認出来るでしょう。右側の装飾部が青黒く見えるのは拓本の墨を塗った跡です










西隈上蓋西隈電灯光
左 白黴でかなり解り難くなっていますが、蓋側面と隆起部の装飾文様が確認的ますか?
右 据え付けの蛍光灯を消し手持ちのライトで照らしつつ撮影してみました。別の味わいがありますか?



 装飾線刻は入口部の左右を縦に長い長方形状に区画し、左では円文三個、右は円文二個の間に鋸歯文状の連続三角文を線刻しています。円文にはコンパスの中心として使ったらしい彫りの深い中心孔があります。
 蓋石の辺部前面にも同様の円文が線刻されており、少なくとも3、4個彫られていたと思われますが、残念ながら石材の破損が酷く中央の一個と右側の中心孔が残るだけです。
 更に蓋石に蒲鉾状に脹らんだ隆起部の前面は二重の台形の橋状に削り残して浮彫の雰囲気を出したあと、その周囲を同様の円文で取り囲んでいます。周辺部に三個中心部に一個が確認出来ます。

 彩色は全体を赤く塗り、円文部だけを塗り残すという面白い手法で施されており(宇土市三拾町転用板碑でも同様の手法が見られます)ます。
 現在では天井部分は白黴に覆われて見難くなってしまっていますが、初見当時はそこに黴は無く、塗り分けられた色彩を綺麗に残していた記憶があります。
 また、連続三角文は永安寺東古墳のように本来牙の様に塗り分けられていたはずです。しかし、ずっと昔に何処かの愚か者が、入り口右の装飾に墨を塗って拓本を取ってしまったために、色彩が塗りつぶされて青く塗ったように見えます。これは墨の跡で顔料ではありません。

 当時中学生だった我々はあまりに狭い室内に不満を訴えつつも、珍しい形をした石棺とその装飾を堪能し、私は「オラが町の装飾古墳」を誇りに思った事を良く覚えています。誰に急かされることも無く(立会管理者がいると焦るのですよね)、ゆっくりと装飾観察を堪能した我々は、お礼言って鍵を返し、颯爽と帰路についたのでした。
銚子塚 帰りに近くの佐賀県では屈指の前方後円墳、銚子塚古墳をしっかり探訪するのも忘れませんでした。

全長100m近い前期前方後円墳の銚子塚古墳。左側の木が立っているのが後円部、右側の低い高まりが前方部です。西隈古墳の1kmくらい南にあります



 ここに示した画像は先週実家に帰省したついでに寄って撮影したものです。古墳の周辺の風景は今も当時とほとんど変化がありません。これは珍しいことで、それだけ故郷佐賀市が田舎であると言うことかも知れませんが、私はむしろこの変わらぬ風景を誇りに思います。この風景がいつまでも残ることを祈りたいものです。