<最寄り駅の花壇> <センジュギク>
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<よく手入れされています、ご苦労様です>
今日もおかげを頂きました、感謝、感謝です。
小雨が降っています、13時のご祈念参拝&御理解を頂き、後、早々に帰宅。
自己体温、36.2℃で平熱、元気です。
現在、雨、気温25℃、最高25℃、最低気温20℃、日の入りは19時32分、今後一時間は雨の予報。
天と大地と御霊様へ拝礼。
今日の御理解・教典-877頁-
理解 Ⅲ 尋求教語録 174-2 片岡次郎四郎 編、
172. 「信心はやすいようでも、なかなかむずかしい。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら信心家じゃ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けたら何十年何百年も立ち行こうが。
今月今日で頼めい。おかげは和賀心(わがこころ)にあり。取り越(こ)し苦労をすな」
と金光様は言わっしゃれたぞ。
※ ご参考、繰り返し頂きます、2022年10月18日、2022年6月25日、21021年6月25日、2015年2月6日、2015年1月18日、2012年5月3日。
<教会長先生、御理解>
旧教典の御理解第69節は、この原文をもとに編集されました。すなわち、
「信心はみやすいものじゃが、三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめしゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心するがよいぞ。(理解 Ⅲ 金光教祖御理解・69)」 と。
原文の方が御理解の諭旨として一貫していましょう。旧教典のは、編集が過ぎているように思えます。
原文に手を加えるのはいいですが、すぎると正確に伝わるのが難しくなります。
だいいち、教祖さまの御趣意から遠のくことになりかねません。
旧教典のままでは、それで信心が難しくなったという箇所がいくつかあります。
例えば、前頁の876頁の170には、
金光様は、
「われを放れれば神になるというが、人間、生きておる間は達者繁盛を願い、百姓が五穀成就を願い、商売人が商売繁盛を願うのは当たり前の欲じゃ。われを放れねばならぬというて、商売人が損をしたり百姓が五穀をよう取らなかったり、人間が早死にをしたりしたら国はもたぬと知れ」
と言うてござったが、人間も当たり前の欲だけはなければ、あほうぞ。
とありますが、この御理解は採用されていません。
過去の宗教観念を意識してのことではないでしょうか。
世間には「欲悪煩悩」という言葉もありますし。
あるいはまた「十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ」とありますが、原文では普通にに「信心家じゃ」とあるだけですね。
ことさら高尚なものを意識させる狙いでもあったのでしょうか。
原文の御理解後半では、今月今日で頼むことの大切さが伝わってきます。
信心そのものが日常生活で普通のこと、当たり前のこと、となることが求められてあるのを感じます。
新教典による御理解集は、そういう内容があふれていると思うのです。
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『おかげは和賀心にあり』。
只今、修行中、和楽美・拝。