<公園のアジサイ>

<紫陽花の季節>

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 今日もおかげを頂きました、感謝、感謝です。

曇り空です、13時のご祈念参拝&御理解を頂き、後、役場のリサイクル置場へ段ボール持ち込み、その足でいつもの公園へ軽くお散歩、スーパーに立ち寄り帰宅。

 自己体温、36.6℃で平熱、元気です。

 

 現在、曇り、気温25℃、最高26℃、最低気温18℃、日の入りは19時26分、最大風速は5m/s.です。

 天と大地と御霊様へ拝礼。

 

 

今日の御理解・教典-756頁- 昨日と同じ御理解。

 理解 Ⅲ 御道案内 22-4 白神新一郎 著(明治4年)より、

 

23. 一つ、金神様には、世界一統だれかれとなく氏子と のたまい、おかげは、日月様の照らしたまう かげのごとく充満(じゅうまん)のおかげを御授け、御助けたき おぼしめし。

信心は し得(どく)、おかげは取り勝ちなるを、人によりては、私にはおかげがないの、なにほど信心しても同じことのと、捨ててしまう者あり。大きな誤りなり。これ、疑う心あるゆえなり。

 

たとえば、この方角へ普請(ふしん)作事、何によらず、いたしては悪いと思い、また、この品を飲食しても あたりはせぬかと、己(おの)が濁(にご)るゆえお障(さわ)りもでき、飲食も毒とならんか。この疑念をさっぱり廃(はい)し。

すでに、さるご信心家に、普請いたすにつき、まずお断り申しあげ奉り、かからんとせしに、ほかより人々来りて口々に故障申すにつき少し迷い、再応お願い申され候ところ、「人界の言うことを用い、神の申すことを疑う。神はうそを言わず。勝手にせよ。以後、おくじもやらん」 と のたまいしかば、ふと心づき、大いに誤れり、ようやくお断り申しあげ奉り、はじめのごとくいたして、今ますます繁栄(はんえい)なり。

人は何を言うとも、神に空言はなし。

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※ ご参考、2024年6月5日、2019年11月25日。

 

 

<教会長先生、御理解>

 明治4年執筆の「御道案内」は、当時の教祖さまがどのように信徒に教導してあったかを知る上での貴重な資料です。

ここでは、「おかげは、わが心にあり」の内容が、氏子の心の持ちよう、ありようで、結果が違ってくること

そしてそれは、世間で言うプラス思考的な考え方のことではありません。

つまりは、天地の大恩恵の中に一切があるを知ることの大切さを言われたものであり、素直に天地の神の教えを守ることの大切さを言われたものであり、反対に、迷ったり疑念をいただくなら、おかげにはならない、ということを説いてあるのです。

 

もちろんそれは、戒律のように説いてあるのではありません。

どこぞの宗教のように、豚肉を食べるな、酒を飲むな、などというような、根拠も何もない理不尽に従え、ということではありません。

天地数十億年の、一分一厘間違いない働きの中に一切が成り立ち、整ってきたことに、不平不足を言うなら、「己が心が濁るゆえお障りもでき、飲食も毒とならんか」という意味です。

 

不平不足を言ってはならないとは、好き嫌いを言ってはならないという意味ではありません。好き不好きは、神様から与えられた個人差であり、ですから、

氏子、好き不好きがある。好いた物をば食べるがよし。(理解 Ⅰ 市村光五郎3・34)」

と仰せられるのです。

 

天地書附にある「おかげは、和賀心にあり」とは、神さまご自身が「おかげは私の心にある」と仰せられているという意味にも受け取れます。

ですから、神様のお心に沿うことこそが大切です。

全生命体、全人類のことを思って、今日まで一分一厘間違いなくお働き下さってあることを知るとき、そこにはもう、ただお礼しかないでしょう。感謝しかないでしょう。

反対に不平不足の心を人間が出すのを一番お嫌いなさるのだ、と。

 

 

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おかげは和賀心にあり』。

 

   只今、修行中、和楽美・拝。