<公園のユリカモメ>
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今日もおかげを頂きました、感謝、感謝です。
小雨のお天気でした、13時ご祈念参拝、後、地区の教会連合会の末席で、各々の教会長先生のお話を頂きました、直会迄おかげを頂き、18時過ぎに帰宅。
今日の御理解・教典-214頁-
理解 Ⅰ 市村光五郎 1 44-1
45. 金光様お話に、
「金光が金神様に一心に信心しておかげを受けておることを話して聞かすのぞ。言うことを疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものぞ」
とお言葉あり。
「また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点をせよ」
とお言葉あり。
「言うことを聞かぬ子が一番つまらぬものぞ。そこで、神の心を氏子知らず、親の心を子知らずというてあるぞ」
※ ご参考、繰り返し繰り返し頂きます、2023年9月9日、2022年4月8日、2019年11月5日、2019年10月2日、2019年1月15日、2018年2月18日、2015年11月5日、2015年4月25日、2014年12月10日、2014年10月4日、2014年5月12日。
<教会長先生、御理解>
いつも申しておりますが、中国地方で「かわいい」とは、かわいそう、不憫である、という意味です。
またの御理解に、
「五人の子供の中に、くずの子が一人あれば、くずの子ほど かわいいのが親の心。神ものう、不信心の者ほどかわいい。信心しておかげを受けなさいよう。(理解 Ⅰ 荻原須喜の伝え・26)」 ともあります。
ここでも同じです。かわいそうでならない、との親神様の思いが伝わってくる御理解です。
根本的に神認識を改めねばならないのではないでしょうか。
過去の宗教が説く神は、絶対の支配者であり、厳しい罰則や戒律をもうけては、人間を監視する存在として君臨するものとして説いてきました。
それは どういうことかと言うと、法律としての機能をもたせていたのです。
つまりは、政治としての宗教であったのです。
人々を管理し、コントロールして、社会秩序を維持させるための。
ですから、罰則も厳しいものです。
旧約聖書の中の有名なモーゼの十戒には、神の名をむやみに唱えるな、とあります。
それをする者を、罰せずにはおかない、とあります。(出エジプト記20章の3)
本教的に言いますと、「お父さん、お母さん」と唱えるだけで罰するというのです。
ですから、こんな理不尽な神様はおられません。
それだけでも、根本的に違うのだと分からねばならないでしよう。
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『おかげは和賀心にあり』。
只今、修行中、和楽美・拝。