<クロガネモチ>
<教会のサクランボの花>
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今日もおかげを頂きました、感謝、感謝です。
朝から曇り空のお天気です、13時のご祈念参拝&御理解を頂き、後、MrMaxへ買い物散歩で早々に帰宅。
自己体温、36.7℃で平熱で、元気です。
現在、曇り、強風、気温12℃、最高14℃、最低気温10℃、日の入りは18時34分。
天と大地と御霊様へ拝礼。
今日の御理解・教典-253頁-
理解 Ⅰ 市村光五郎 3 39-1
36. 神様を久しゅう拝めば、家内がやかましゅう言うおうがな。
そこで、金神は手をたたかんでもお祓いはあげんでも、さしつかえのないがよい、とおっしゃっる。
37. 家の内は、ひとり信心はできん。夫婦(めおと)そろわねば信心ができず。
神様に礼儀(れいぎ)(礼拝)いたす時、家内が「もう、やめにしなされ。それより、お茶でもたくがよい」と言おうがな。
金神はさしつかえんことを願う。
※ ご参考、2022年7月12日、2020年7月29日、2019年10月15日、2019年6月24日、2019年6月8日、2018年7月25日、2015年2月14日、2015年2月9日。
<教会長先生、御理解>
まるで市村光五郎さんの家の内を見てあるかのようなお言葉ではあります。
市村光五郎さんは、後にお道の教師になることを志されるのですが、家内親類の反対にあって断念してあります。
その書き残された御理解集を読みますと、相当熱心な信心をしてあったことがうかがえるのですが、周囲の賛同はなかなか得られなかったようです。
これは今日でもしばしばそういったケースが見られますね。
熱心であるけれども例えば家族には伝わらないとか。
私はいつか、信徒連合会の集会の格子を頼まれました時に、信徒幹部の方々に申したことでした。
「あまり熱心にならないでください」と。
怪訝な顔をされましたが、「あまり熱心だと、家内子供がついていくことが出来ないのですよね」と申しました。
実際そうなのです。
そして子供たちからは、「あれは母の趣味だから。あれは父の道楽だから」ぐらいにしか見られないで終わる、ということがあるのです。
教祖が説かれて信心の道理を知らないから、そうなるのではないでしょうか。
またの御理解にあります。
「あの日乃大神様のことを、今は事がよう開けましたのう、機械ということになりました。機械にもせよ、よい機械でありますのう。この機械に明かりを見せてもらい、世話になれば、礼を言わねばなりません。(理解 Ⅰ 徳永健次の伝え・3)」
「世話になれば、礼を言わねばなりません」と。
これが教祖が説かれる、信仰と言うよりも人としての真・真心のことなのです。
人として真であれ、と。
教祖は元はお百姓さんでした。
田畑で働く中に、大地の恩恵、日のお照らしのありがたさ、お潤いの貴重さ。
教祖は「雨」と言わずに「お潤い」と言ってありました。
それから広大無辺の天地の御恩恵に頭を下げることこそ人としての真であると思われていたことでしょう。
それはもはや、宗教心というものではない、人として至極当然の当たり前のことと認識されてあったことでしょう。
その上さらに、天地の親神さまと頂き、願い、頼めば、おかげを下さる、そういう存在として天地はあるのだと。
そしてそれは、絶対の支配者として頭上に君臨するのではなく、ここでの御理解にありますように、明らかに氏子に気遣いをしてあります。
神様を拝むのにも差し支えのないのがよいと。親は案外そんなものです。
そういう天地の間に私共は存在させてもらっていることを知ることがお道の信心のかなめではないでしようか。
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『おかげは和賀心にあり』。
只今、修行中、和楽美・拝。