最高到達点にまで一気に駆け抜けていきたい男、蕨です。

今回は鹿児島にかつて存在した二つの運河の片割れ、行屋堀について取り上げます。

鉄道開通に伴い埋め立てられたことで知っている方もいるかもしれません。

ちなみにもう一つは名山町の市役所の前付近を流れていた名山堀です。同様に埋められ現存しませんが、こちらは痕跡が残っている為そのうち取り上げます。

 

地図青線が今回の主役、行屋堀です。現在のJR鹿児島駅一帯を囲むように存在していました。

現在は鉄道開通に伴い埋め立てられかつての面影はほぼありません。

なお今回の探索ではあくまで晩年の行屋堀を取り上げます。というのもこの行屋堀のあった浜町一帯は時代によってかなり形を変えているからですネ。

あと当探索で取り上げる橋は木橋か晩年は石橋であったかはちょっとまだはっきりしていません。資料が見つかり次第追記。

 

本題の前に。石橋記念公園内の古地図のいくつかには行屋堀が記載されています。

稲荷川の河口と行屋堀に囲まれた当時の島型の土地は築地や上築地と呼ばれ、その名の通り埋め立てで築造された土地だったようです。行屋堀より陸側がかつての海岸線。

 

同様に石橋記念公園内の看板。行屋堀が確認できます。

 

という訳で本題。稲荷川河口手前、現在の永安橋付近から探索を開始します。

稲荷川が90度東に流れを変えるこの地点で稲荷川と行屋堀が分岐していました。

行屋堀はちょうど線路と現在の市道(写真右)脇、または市道の一部にあたります。写真でいうと中央あたり。

 

市道を鹿児島駅側へと進みます。

ここがかつての海岸線かつ行屋堀の一部or沿岸でした。

歩道のあたりにはかつて行屋堀だった名残の暗渠がありましたが近年の鹿児島駅周辺の整備により消失。

 

市道に別の道路が合流してくる付近には鉄塔のような施設がありました。

ここが行屋堀に架かっていた一本目の橋の跡地です。名称ははっきりしません。

ここでは古地図に倣い抱真橋とします。抱真、というのは対岸の築地に存在した抱真院に由来します。

ただ永安橋の架け替える前が抱真橋という木橋という話で、そちらは稲荷川に架かっているという説もあるので謎です。厳密には初代永安橋の場所は塩入橋という木橋が架かっていたはずなのですが、、、

何はともあえ、橋のあった痕跡はありません。

 

暫く市道を進むと二本目の橋の跡に到着。写真右の道と築地を接続する橋で、汐見橋という名称だったと推測されます。

 

鹿児島駅(築地)側の橋跡。公園になっていますが元はJR九州の建屋に付属する駐車場がありました。

 

汐見橋付近の駐車場内には移設されたであろう水神様などが鎮座していました。

行屋堀との関連性は不明です。

 

その後すぐに三本目の橋、蛭子橋跡へ。

写真右からの道と築地を接続する橋でした。蛭子(恵比寿)というのは元々のここより陸地側の地名。

橋跡は現在ドラッグストアモリになっていますがこちらも元はJRの敷地。

 

そこより先、鹿児島駅の駅舎脇付近に存在したのが四本目の橋である孝行橋です。

孝行橋の名前の由来はこの近くの恵比寿公園内に孝行橋碑として石碑に刻まれています。

端的に言うと病気の母の面倒を見た人物が島津に感銘を与え屋敷をもらい受けた事に由来します。

 

このあたりから行屋堀は市道を離れ現在の鹿児島市電の鹿児島駅前電停方面へと進みます。

 

市電前のロータリー。この付近に五本目の橋である行屋橋が架かっていました。

 

行屋橋より先は現在の県道脇を流れていたと思われます。

 

かんまちやの一部も行屋堀の跡地です。

ちなみにかんまちやはJR(国鉄)の貨物やその他施設の跡地です。

 

JR貨物の鹿児島貨物ターミナル駅。そこを流れていたのが行屋堀です。

なお、このあたりから築地の内部へと入る支流があったようです。築地造成当初はその支流が抱真橋付近まで貫通しており境橋という橋も架かっていました。

 

鹿児島港とを結んでいた廃線の貨物線の現役区間の終点。

 

やがて永遠に開通してないでお馴染み鹿児島北バイパスに行きつきます。

このあたりも後年に埋め立てられたものでこの手前が行屋堀の河口でした。

 

すぐ傍に向江町の解説看板がありました。向江町は現在浜町に合併され消失しています。

この向江町の現在地付近の境目が海岸線、または先述の支流のものだったと考えられます。

 

以下はオマケ。

 

石橋記念公園内には謎の石造物が転がっています。

実はコレ、行屋堀内で使用されていた石造りの水位計と考えられています。

 

段階的に時間が記されています。全国的にも珍しい石造りの水位計。

 

今回の探索はここまでとします。