6/29〜7/6 1週間の母の介護週間
母は唐突に昔のことを話し出すんだが、繰り返し言ってることに、なんらかの意味合いがあるんだろうかとこの頃思う。
千葉の稲毛生まれ稲毛育ちの母
「東京大空襲のとき、東京の方の空見ると真っ赤でねー」
これは強烈な情景として目に焼き付いているんだろうな
東京への空襲は100回以上らしいが、1945年3月10日のが一番大きく、その時のことなんだろうか?
母は1935年生、満9歳の記憶。
「家を貸してたんだけど家賃を払ってくれなくて、裁判起こしたんだけど、あれどうなった?」これもうちに来るたびに言う。
初めて言われた時は、なんのことやらさっぱりわからず。
稲毛の実家周辺に、相当に古い木造長屋といった佇まいの家があった記憶はあり、アレかな? と思い至った。
私の記憶も40〜50年前のもので、裁判って穏やかじゃないが、いつの話だい。
今回よくよく聞くと、裁判を起こしたのは「ふみこ姉さん」だと言うので。その叔母は40年くらい前に亡くなっているので、その前の話ってこと。
ほぼ人ごとであるだろうに、どういう感情が混じって気になってるのか不思議。
突然唄い出すって、あることだと思うが・・・
「いなげのはまの なみをきき こころもはずむ ちばろくちゅう」
あちこち当たって出てきたのがこちら
ここの上記リンクへ飛ぶと、市川市の中学のHPに飛んで、こんな歌詞じゃないし、千葉市に6中は現存しない。
当時は稲毛村か稲毛町だった頃か。
自分を振り返ると、覚えている校歌は、小1の1年間通った東内小学校の校歌のみで、楽しき頃かと思うかもしれんが暗黒期。
なんで覚えてんだ? 父が東内小卒なので、よく歌っていたとか?
私は校歌をまじめに歌うタイプの子だったと思うが、その後の校歌の一節も覚えとらんて何故に? 脳とはわからんもんである。
今さら中学の校歌か・・・母にとって良い時期だったのか、悪しき時期か
戦後すぐだもんなぁ
昨日の朝、デーケアに母を送り出し、夕方は直接丸子の実家に戻ったわけだが、今朝5時に妹①から電話がきた。
深夜2時頃「痛いー」の声で飛び起きると転んでいる母。頭にコブ。
救急搬送され検査すると、右上腕と肘の骨折だそう・・・
押し車でやっと立上り、歩いているのに、リハビリもできない!?
怪我多き人生だなぁ
去年4月に太腿あたりを骨折し、手術リハビリと過ごし復活したばかりなのに。
友人のお母さんはパーキンソンになり、ぶつかったり落ちたりと色々あるが、骨が丈夫で全く骨折をしない。
が、擦り傷切り傷で抗生物質をたくさん使って、耐性菌ができて、どんどん強い抗生剤になり、効くのがなくなってきたという。
爪切りの際バイ菌が入り、指の先端切除、またも化膿とあちらも大変で、小諸本陣でランチしよーがのびのびになるっていう。
だいたいの日程を決めておいて、直前予約の決行に尽きる。