ミッチー
と言えば森嶋通夫先生のことですが、森嶋通夫著作集というのが出ているんですね。当然か。
今日はリチャードソンのことを話そうと思っていましたが、前置きを書きたい気分。
著作集の前書きを読むと、ヒックスの価値と資本に強い影響を受けたそうで。まあそんなところだと思いましたよ。たまに森嶋先生を「マル経」の学者に分類している人がいますが、森嶋先生で「マル経」なら一体誰が「マル経」じゃないんだと聞きたいくらいですよ。
いやはや困ったものでして、特にあの世代はマルクスの資本論くらい当然読んでいるというだけの話ですからね。そういう意味で言えばスミスだってマーシャルだって読んでるでしょ。でも「あいつはスミ経だ」とか「あいつはマー経だ」とか言わないでしょ。じゃあ「マル経」って何だと。
「マル経」「マル経」としきりに括弧でくくるのは理由がありまして、私はマルクス主義経済学などというものは存在しないと信じているんです。だって原論に相当する部分を事実上持ってないでしょ。
資本論があると言うかもしれません。しかし、おそらくマルクス先生ご本人も分かっていたようですが、体系としての体を為していません。もっと言ってしまえば矛盾してます、堂々と。
まあしかしね、ちょっとくらい矛盾してたって別に構わないんですよ。結局、資本とは何かなんて誰もろくに分かっちゃあいないんですから。それに何事もやってみないと分からないんですよ、何百万人死のうがね。
そもそもマルクス先生が非難されるようなことなんて、レンシェンを妊娠させたことくらいですよ。「マル経」なんてありもしないものを捏ち上げ、持ち上げたり貶したりしてお祭り騒ぎをやって、それでマルクス個人をスケープゴートに仕立て上げるのはよろしくないですな。何より学問的でない。
大体、あなたはどの経済学を学びましたかという質問に対して、私は○○(人名)を学びましたと答えるのはおかしい。少なくとも○○(人名)の何を学んだのかくらい言え、と。あなたはどの数学を学びましたかと聞かれて、私はグロタンディークを学びましたとかリーマンを学びましたとか言う奴がいるか。しかしこれは経済学が相も変わらず「天才の学問」であるということを示しているのかもしれない。天才の学問であるとは、その分野には傑出した個人と賛同者がいるだけであり、学問として洗練したり深化させる集団が存在しないということ。つまりは「学派」が存在しないということ。
仮にも原論を持っている経済学に対してこんなことを言うと怒られるかもしれませんが、そう思えるんだからしょうがない。
随分長い前置きになりましたが、ここからが本題。
私は同様に「軍事学」においても、クラウゼヴィッツだのマハンだのと個人名を連呼するだけではダメだと思っている。だからこそ、注目すべき「現象」は何か、そこに横たわる「原理」は何か、そして何が「予測」出来るのか、と小煩く言う。そこに特定の個人は関係ないからだ。
じゃあそこで何に注目するか、となるのだが…
ここで現象と言うよりは「評価」に近いものに迂闊に首を突っ込むと痛い目に遭う。そうは言っても、扱う対象が社会ないし社会的事象であり、即ち「人間の前頭葉の産物」であるのだから、評価が絡まないものを扱う方が難しいと思うかもしれない。しかし現象とそれに対する評価はやはり原則区別されなければならないと思うのだ。
具体的に何のことを話しているか分かり辛いだろうが、これはリチャードソンが注目したであろうものについてのお話である。それは軍事力、特に軍事費の函数としての軍事力である。
軍事力とは何か。
こんな不毛な命題もないと思う。
そうは言っても軍事力という単語自体はよく使う。それは便利だからだ。漠然とした感覚で軍隊等について語るとき、これほど便利な単語もない。日常用語で言うところの「強さ」に相当する用語であることは確かだろう。しかし依然として日常用語の水準を脱していない。
もしこの軍事力という単語を学術的に使いたいのであれば、専門用語として洗練されなければならない。例えば「軍事費の函数である」などと。
しかし軍事力が何であるかはともかく、軍事費の函数であると言えるのだろうか。さらに軍事費と言ってもどれを軍事費に計算するのかは大きく幅がある、しかも各国の通貨が違う、そんな状況だ。そんな中でも軍事力が軍事費の函数であるような部分がありうるとは思う。それは軍事政策等の方針等や、軍隊等の組織等、あるいは調達装備等が変わらないような範囲において、つまり自衛隊で言えば同一中期防の間などにおいて、さらに貨幣価値が大きく変動しない範囲において、つまり3000円で3年前は米10kgが買えたが今年は3kgしか買えないというようなことがない場合で、その他諸々の情勢等が大きく変わらない上で、以上のようなことを一言で言い表すなら「その他の事情を一定として」、軍事力は軍事費の函数であると考えられる。しかもこの場合の基準はあくまでも数年前の自分の軍事力、つまり相対的な評価になる。
もっと言ってしまえば、軍事力が軍事費の函数であるとき、同時に線形分析が成り立つ。だからリチャードソンがその論文の中で軍事費等について扱う上で線形分析を用いたのは慧眼だったと後付けで言えなくもないだろう。
さてリチャードソンが軍事力を軍事費の函数と捉えたのは、昨日のメモの中にあった"x and y are the annual expenditures on "defense" of opposing groups"からも伺い知れることだ。これは別にリチャードソンのアイデアとは言えない。おそらく多くの人は軍事力と言えばまず軍事費との関連を思い浮かべるだろう、要するに素朴なアイデアだということだ。
リチャードソンが扱った時期はさまざまだが、1908-1914、1929-1939、などのそれほど短くもない時期が多い。しかもハイパーインフレしたり、ブラックマンデーが来たりしてるような時期だ。純軍事的に言ってもそれほど安定した時期だとも思えない。
リチャードソンの分析が輝かしくも失敗した理由はこの辺りにありそうだ。まず分析手法を間違えたこと、それ以前の問題として軍事費に注目したことが致命的だったのではないだろうか。
なぜ長期分析において軍事費に注目してはいけないのか。
別に何か分かった上で書いている訳ではないが、おそらくは貨幣を介在させることによって「自明でない部分」、つまり主観的な評価が著しく混入してくるのではないかな…と思ったのだが…。
貨幣も本質的には物々交換の上に成り立っているものであって…たぶん…交換は主観価値に基づく不等価交換であり…したがって軍事費によって計られる軍事力とはある種の評価である…ああ、違うな…うまく表現出来ない…
基本的なアイデアは「軍事力とは畢竟ある種の評価である」というものだった訳ですが、全然伝わらない。だから砲弾の備蓄が何tだとか、戦車砲の初速が何m/sだとか、そういう客観的な基準とは無縁のものなんじゃないかと思った訳です。極端な話、「あの国の軍事費は大きいから軍事力が高い」というのは「あの国は強いに違いない」とか「あの国なら何かやってくれるに違いない」とか、そんな程度の話とどれほども差がないんじゃないかと。大体どんな国の軍隊だって人件費が占める割合は3-4割程度で最もウェイトを占めると言われているのであって、仮に兵士のお給金を比較してみたとして「強さ」という観点から何か意味あるのか、と。月給1700米$の兵士は月給170米$の兵士の十倍強い、訳ないだろと。
こういうことを言うのも私が「バカと兵器は使いよう」と思っているからという部分も無くはない、かと言って、やれ運用がどうのやれ人材育成がどうのとは増々もって思って無い。
ああ、分からん。結局のところは例の原則に行き着く。そう費用対効果の原則に。
つまり軍事費と軍事力には本質的な関係はない。
それに今日はもう一つ検証すべき事項、
軍事力とは主観的評価である。
を付け加えて、むりやり〆。明日読み直してみるときっと意味不明なことが書いてあるに違いないが、どうでもいいや。クソして寝よう。
今日はリチャードソンのことを話そうと思っていましたが、前置きを書きたい気分。
著作集の前書きを読むと、ヒックスの価値と資本に強い影響を受けたそうで。まあそんなところだと思いましたよ。たまに森嶋先生を「マル経」の学者に分類している人がいますが、森嶋先生で「マル経」なら一体誰が「マル経」じゃないんだと聞きたいくらいですよ。
いやはや困ったものでして、特にあの世代はマルクスの資本論くらい当然読んでいるというだけの話ですからね。そういう意味で言えばスミスだってマーシャルだって読んでるでしょ。でも「あいつはスミ経だ」とか「あいつはマー経だ」とか言わないでしょ。じゃあ「マル経」って何だと。
「マル経」「マル経」としきりに括弧でくくるのは理由がありまして、私はマルクス主義経済学などというものは存在しないと信じているんです。だって原論に相当する部分を事実上持ってないでしょ。
資本論があると言うかもしれません。しかし、おそらくマルクス先生ご本人も分かっていたようですが、体系としての体を為していません。もっと言ってしまえば矛盾してます、堂々と。
まあしかしね、ちょっとくらい矛盾してたって別に構わないんですよ。結局、資本とは何かなんて誰もろくに分かっちゃあいないんですから。それに何事もやってみないと分からないんですよ、何百万人死のうがね。
そもそもマルクス先生が非難されるようなことなんて、レンシェンを妊娠させたことくらいですよ。「マル経」なんてありもしないものを捏ち上げ、持ち上げたり貶したりしてお祭り騒ぎをやって、それでマルクス個人をスケープゴートに仕立て上げるのはよろしくないですな。何より学問的でない。
大体、あなたはどの経済学を学びましたかという質問に対して、私は○○(人名)を学びましたと答えるのはおかしい。少なくとも○○(人名)の何を学んだのかくらい言え、と。あなたはどの数学を学びましたかと聞かれて、私はグロタンディークを学びましたとかリーマンを学びましたとか言う奴がいるか。しかしこれは経済学が相も変わらず「天才の学問」であるということを示しているのかもしれない。天才の学問であるとは、その分野には傑出した個人と賛同者がいるだけであり、学問として洗練したり深化させる集団が存在しないということ。つまりは「学派」が存在しないということ。
仮にも原論を持っている経済学に対してこんなことを言うと怒られるかもしれませんが、そう思えるんだからしょうがない。
随分長い前置きになりましたが、ここからが本題。
私は同様に「軍事学」においても、クラウゼヴィッツだのマハンだのと個人名を連呼するだけではダメだと思っている。だからこそ、注目すべき「現象」は何か、そこに横たわる「原理」は何か、そして何が「予測」出来るのか、と小煩く言う。そこに特定の個人は関係ないからだ。
じゃあそこで何に注目するか、となるのだが…
ここで現象と言うよりは「評価」に近いものに迂闊に首を突っ込むと痛い目に遭う。そうは言っても、扱う対象が社会ないし社会的事象であり、即ち「人間の前頭葉の産物」であるのだから、評価が絡まないものを扱う方が難しいと思うかもしれない。しかし現象とそれに対する評価はやはり原則区別されなければならないと思うのだ。
具体的に何のことを話しているか分かり辛いだろうが、これはリチャードソンが注目したであろうものについてのお話である。それは軍事力、特に軍事費の函数としての軍事力である。
軍事力とは何か。
こんな不毛な命題もないと思う。
そうは言っても軍事力という単語自体はよく使う。それは便利だからだ。漠然とした感覚で軍隊等について語るとき、これほど便利な単語もない。日常用語で言うところの「強さ」に相当する用語であることは確かだろう。しかし依然として日常用語の水準を脱していない。
もしこの軍事力という単語を学術的に使いたいのであれば、専門用語として洗練されなければならない。例えば「軍事費の函数である」などと。
しかし軍事力が何であるかはともかく、軍事費の函数であると言えるのだろうか。さらに軍事費と言ってもどれを軍事費に計算するのかは大きく幅がある、しかも各国の通貨が違う、そんな状況だ。そんな中でも軍事力が軍事費の函数であるような部分がありうるとは思う。それは軍事政策等の方針等や、軍隊等の組織等、あるいは調達装備等が変わらないような範囲において、つまり自衛隊で言えば同一中期防の間などにおいて、さらに貨幣価値が大きく変動しない範囲において、つまり3000円で3年前は米10kgが買えたが今年は3kgしか買えないというようなことがない場合で、その他諸々の情勢等が大きく変わらない上で、以上のようなことを一言で言い表すなら「その他の事情を一定として」、軍事力は軍事費の函数であると考えられる。しかもこの場合の基準はあくまでも数年前の自分の軍事力、つまり相対的な評価になる。
もっと言ってしまえば、軍事力が軍事費の函数であるとき、同時に線形分析が成り立つ。だからリチャードソンがその論文の中で軍事費等について扱う上で線形分析を用いたのは慧眼だったと後付けで言えなくもないだろう。
さてリチャードソンが軍事力を軍事費の函数と捉えたのは、昨日のメモの中にあった"x and y are the annual expenditures on "defense" of opposing groups"からも伺い知れることだ。これは別にリチャードソンのアイデアとは言えない。おそらく多くの人は軍事力と言えばまず軍事費との関連を思い浮かべるだろう、要するに素朴なアイデアだということだ。
リチャードソンが扱った時期はさまざまだが、1908-1914、1929-1939、などのそれほど短くもない時期が多い。しかもハイパーインフレしたり、ブラックマンデーが来たりしてるような時期だ。純軍事的に言ってもそれほど安定した時期だとも思えない。
リチャードソンの分析が輝かしくも失敗した理由はこの辺りにありそうだ。まず分析手法を間違えたこと、それ以前の問題として軍事費に注目したことが致命的だったのではないだろうか。
なぜ長期分析において軍事費に注目してはいけないのか。
別に何か分かった上で書いている訳ではないが、おそらくは貨幣を介在させることによって「自明でない部分」、つまり主観的な評価が著しく混入してくるのではないかな…と思ったのだが…。
貨幣も本質的には物々交換の上に成り立っているものであって…たぶん…交換は主観価値に基づく不等価交換であり…したがって軍事費によって計られる軍事力とはある種の評価である…ああ、違うな…うまく表現出来ない…
基本的なアイデアは「軍事力とは畢竟ある種の評価である」というものだった訳ですが、全然伝わらない。だから砲弾の備蓄が何tだとか、戦車砲の初速が何m/sだとか、そういう客観的な基準とは無縁のものなんじゃないかと思った訳です。極端な話、「あの国の軍事費は大きいから軍事力が高い」というのは「あの国は強いに違いない」とか「あの国なら何かやってくれるに違いない」とか、そんな程度の話とどれほども差がないんじゃないかと。大体どんな国の軍隊だって人件費が占める割合は3-4割程度で最もウェイトを占めると言われているのであって、仮に兵士のお給金を比較してみたとして「強さ」という観点から何か意味あるのか、と。月給1700米$の兵士は月給170米$の兵士の十倍強い、訳ないだろと。
こういうことを言うのも私が「バカと兵器は使いよう」と思っているからという部分も無くはない、かと言って、やれ運用がどうのやれ人材育成がどうのとは増々もって思って無い。
ああ、分からん。結局のところは例の原則に行き着く。そう費用対効果の原則に。
つまり軍事費と軍事力には本質的な関係はない。
それに今日はもう一つ検証すべき事項、
軍事力とは主観的評価である。
を付け加えて、むりやり〆。明日読み直してみるときっと意味不明なことが書いてあるに違いないが、どうでもいいや。クソして寝よう。
メモ
where x and y are the annual expenditures on "defense" of opposing groups,then
dx/dt=g-ax+ky, dy/dt=h+lx-by,
in which g, h, a, b, k, and l are constants and t is the time.
The phrase "normal co-ordinates" will be used to denote any linear function of the given variables x and y with coefficients so chosen that only a single exponential function of time is involved.
リチャードソンの使っている数学は至極易しい(Mさんも安心)
「舞-HiME」「舞-乙HiME」スタッフは、視聴者サービスをやめたら死ぬ奇病にかかっている
dx/dt=g-ax+ky, dy/dt=h+lx-by,
in which g, h, a, b, k, and l are constants and t is the time.
The phrase "normal co-ordinates" will be used to denote any linear function of the given variables x and y with coefficients so chosen that only a single exponential function of time is involved.
リチャードソンの使っている数学は至極易しい(Mさんも安心)
「舞-HiME」「舞-乙HiME」スタッフは、視聴者サービスをやめたら死ぬ奇病にかかっている
暇だから
在日朝鮮人のことでも話してみようかと。文章化しておくと自分も忘れないし。
普通の日本人をやる上で知る必要はまったくないが、もし「在日」のことで煩くなったら参考にしてもらえれば嬉しい。
数年前の情報が多いですが、平にご容赦を。
在日韓国朝鮮人には大別して2種類いる。
いわゆるオールドカマーとニューカマー。このうち俗に「在日」と言われるのはオールドカマーの方。ニューカマーはビジネスなどで来た「普通の」外国人のこと。
二つとも合わせると一応在日外国人の中で最も多い(もう逆転されてるかも)。私の知っているデータだと在日外国人約150万のうち、55万人程度。このうちニューカマーは10万人程度。2位は中国人で50万人くらい。3位はブラジル人で25万人くらい。
以下オールドカマーについて。
在日には韓国籍と朝鮮籍の2種類がいる。まずはじめに全員に朝鮮籍が与えられた。いわゆる統一朝鮮の朝鮮のこと。次に韓国籍への転属が可能になった。現在では韓国籍と朝鮮籍の割合は98:2程度と言われていて、ほとんど全員韓国籍。北の出身の人間はもともと少ない上、帰国事業でほとんど帰った。また、韓国籍でも慶尚道(釜山などがある道、大昔の百済あたり)出身者が圧倒的に多い、全体の9割程度だったと記憶している。
在日にも「種類」がある。1世、2世、3世、という奴だ。このうち、もっとも「小煩い」のが在日2世。個人的な名付けだが、私は1世を「独立派」、2世を「賠償派」、3世を「同化世代」と呼んでいる。
1世はかなり帰ったが、朝鮮戦争の勃発等もあって渡航を延期したり、戻ってきた人も多い。私はこの世代に幾人か会って例の質問をしてみた、「祖国に帰れないというのは本当ですか」と。私が聞いた答えはすべて「そんなことは無い」だった。要するに戦争なんかがあったり、食えなかったりしたので、生活基盤のあった日本に戻ったというようなことだったようだ。さすがに老人ということもあって、割りとサバサバしたいい人が多かった、ホントだよ。ただ、独立朝鮮への思い入れはどの世代よりも強く感じられた。
2世は韓国へ帰ろうと思ってもいないような感じの人が多い。でもやかましいのが結構いる。有名(?)なプロパガンダ映画「朝鮮の子」もこの世代が主人公。「差別」を強く言うのもこの世代が多い。小さい頃にキムチ臭いキムチ臭い言われたのを根に持ってるんですかね。在日朝鮮人初めての弁護士の人は面白かった。学生運動を横目で見ながら「ヘルメット買うカネがある奴らが何言ってるんだ」と思ってたらしい、確かに。多くの在日は「在日の弁護士では日本の裁判で不利になるんじゃないか」と思うらしいが、別にそんなことはまったく無いとか。また、別の人は「韓国人が日本人に蔑視するのをやめろと言うなら、まず韓国人が手本を見せて日本人を蔑視するのをやめたらいいんだ」と言ってた、確かに。在日だろうと何だろうと、力のある人は世に受け入れられるもんだ、というのを感じさせてくれる世代でもある。しかし人格に関わらず、ほぼ全員が「謝罪と賠償」は必須だとも考えている。要するにこの世代において「謝罪と賠償」は一種の合言葉であり、挨拶みたいなもんなのだ。「謝罪と賠償」なんて挨拶代わりだと思っておけば、何と言うことも無く付き合えるもんである。必須だと考えていても、実際に日本人の前で口にするような人は少ないし。
加えて、この世代を見ていると最もよく分かるのは「蔑視」と「差別」の区別がついていないということ。ほとんどの在日が言う「差別」とは「蔑視」のことだったわけだ。しかも蔑視するなと言うだけでなく、一定以上の敬意を持って接しないと不快がる人もいて、本当に難しい世代である。
3世になるとほとんど日本人。学校にキムチ持っていってもバカにされるどころか、分けて欲しいと頼まれるような時代に育った連中。帰化しないのが不思議なくらい、と言うか凄い勢いで帰化している。但し、現在最も急進的な活動家はやはりこの世代の若者である。彼らは直感的に理解しているのだ、「在日」なるものは今や急速に縮小しているということを。
さて、もう一つ忘れてはいけないことがある。それは日本人。
「在日情報」はかなりの部分が日本人によってバラまかれている。実際に在日にろくに会ったこともないような(会っているかもしれないが半数以上が日本名を名乗り、日本人っぽく生活しているのだから気付く訳も無い)連中がさも在日を知っているかのように振る舞うのは、日教組教育の賜物なんじゃないかと思う。この手の「活動家」のかなりの部分は日本人だし、「謝罪と賠償」を求めているのにも日本人が少なくないし、何より「日本の問題」として扱っているんだからどう考えたって日本人の仕業だ。
まあともかく、日教組等々のうわ言には耳を貸さないことだ。本当に在日のことが気になるんなら、すぐに会いにいけるんだから本物に会いにいけばいいだけのこと。そして実際に会ってみればすぐ分かる。別に在日なんて小難しいこと考えて生きてるわけでもないってことが。
逆に「急速に縮小しつつある問題」である在日のことをギャーギャー騒ぐのは活動家の仕事そのものである。彼らは「在日」が無視されるのが恐ろしいのだから。
そしてこの「在日の活動家」たちこそが、多くの日本人の抱く「在日」のイメージそのものである。どういうことかおわかり頂けただろうか。
確かではないが、一つ思うことがある。それは「同和・部落・朝鮮」などと一括りにされることからも感じ取れる。
「在日問題」とは在日なる問題が存在すると主張することによって生活している連中がいる、という問題だということだ。
北九州の同和問題も基本的には「私は同和である」と主張することによって特別な地位を得ることが出来るという問題だ。市役所かどこかに「同和にしか就けない職」があるとも聞く。大体今では「新平民」が誰かなんて分かりはしない。同和とは同和会に所属している人間のことだ。そして同和会には新平民云々の審査なしに入れる(審査出来る訳も無い)。
部解同だって単なる利権団体。役立たずの労組(別に労組が役立たずと言ってる訳ではない)と大差ない。今はもう無いかもしれないが、部落だったと言われている部落(分かり辛いな)の真ん中に入っていって教会を立てていた創価学会の方がよほど立派だとしか言いようが無い。
幽霊の正体見たり枯れ尾花は有名な川柳だが、在日の正体見たり日本人と言ったところだろうか。
打倒すべき特権階級がいるとすれば、それは在日であり同和であるということをお忘れなきよう。活動家のみなさん。
普通の日本人をやる上で知る必要はまったくないが、もし「在日」のことで煩くなったら参考にしてもらえれば嬉しい。
数年前の情報が多いですが、平にご容赦を。
在日韓国朝鮮人には大別して2種類いる。
いわゆるオールドカマーとニューカマー。このうち俗に「在日」と言われるのはオールドカマーの方。ニューカマーはビジネスなどで来た「普通の」外国人のこと。
二つとも合わせると一応在日外国人の中で最も多い(もう逆転されてるかも)。私の知っているデータだと在日外国人約150万のうち、55万人程度。このうちニューカマーは10万人程度。2位は中国人で50万人くらい。3位はブラジル人で25万人くらい。
以下オールドカマーについて。
在日には韓国籍と朝鮮籍の2種類がいる。まずはじめに全員に朝鮮籍が与えられた。いわゆる統一朝鮮の朝鮮のこと。次に韓国籍への転属が可能になった。現在では韓国籍と朝鮮籍の割合は98:2程度と言われていて、ほとんど全員韓国籍。北の出身の人間はもともと少ない上、帰国事業でほとんど帰った。また、韓国籍でも慶尚道(釜山などがある道、大昔の百済あたり)出身者が圧倒的に多い、全体の9割程度だったと記憶している。
在日にも「種類」がある。1世、2世、3世、という奴だ。このうち、もっとも「小煩い」のが在日2世。個人的な名付けだが、私は1世を「独立派」、2世を「賠償派」、3世を「同化世代」と呼んでいる。
1世はかなり帰ったが、朝鮮戦争の勃発等もあって渡航を延期したり、戻ってきた人も多い。私はこの世代に幾人か会って例の質問をしてみた、「祖国に帰れないというのは本当ですか」と。私が聞いた答えはすべて「そんなことは無い」だった。要するに戦争なんかがあったり、食えなかったりしたので、生活基盤のあった日本に戻ったというようなことだったようだ。さすがに老人ということもあって、割りとサバサバしたいい人が多かった、ホントだよ。ただ、独立朝鮮への思い入れはどの世代よりも強く感じられた。
2世は韓国へ帰ろうと思ってもいないような感じの人が多い。でもやかましいのが結構いる。有名(?)なプロパガンダ映画「朝鮮の子」もこの世代が主人公。「差別」を強く言うのもこの世代が多い。小さい頃にキムチ臭いキムチ臭い言われたのを根に持ってるんですかね。在日朝鮮人初めての弁護士の人は面白かった。学生運動を横目で見ながら「ヘルメット買うカネがある奴らが何言ってるんだ」と思ってたらしい、確かに。多くの在日は「在日の弁護士では日本の裁判で不利になるんじゃないか」と思うらしいが、別にそんなことはまったく無いとか。また、別の人は「韓国人が日本人に蔑視するのをやめろと言うなら、まず韓国人が手本を見せて日本人を蔑視するのをやめたらいいんだ」と言ってた、確かに。在日だろうと何だろうと、力のある人は世に受け入れられるもんだ、というのを感じさせてくれる世代でもある。しかし人格に関わらず、ほぼ全員が「謝罪と賠償」は必須だとも考えている。要するにこの世代において「謝罪と賠償」は一種の合言葉であり、挨拶みたいなもんなのだ。「謝罪と賠償」なんて挨拶代わりだと思っておけば、何と言うことも無く付き合えるもんである。必須だと考えていても、実際に日本人の前で口にするような人は少ないし。
加えて、この世代を見ていると最もよく分かるのは「蔑視」と「差別」の区別がついていないということ。ほとんどの在日が言う「差別」とは「蔑視」のことだったわけだ。しかも蔑視するなと言うだけでなく、一定以上の敬意を持って接しないと不快がる人もいて、本当に難しい世代である。
3世になるとほとんど日本人。学校にキムチ持っていってもバカにされるどころか、分けて欲しいと頼まれるような時代に育った連中。帰化しないのが不思議なくらい、と言うか凄い勢いで帰化している。但し、現在最も急進的な活動家はやはりこの世代の若者である。彼らは直感的に理解しているのだ、「在日」なるものは今や急速に縮小しているということを。
さて、もう一つ忘れてはいけないことがある。それは日本人。
「在日情報」はかなりの部分が日本人によってバラまかれている。実際に在日にろくに会ったこともないような(会っているかもしれないが半数以上が日本名を名乗り、日本人っぽく生活しているのだから気付く訳も無い)連中がさも在日を知っているかのように振る舞うのは、日教組教育の賜物なんじゃないかと思う。この手の「活動家」のかなりの部分は日本人だし、「謝罪と賠償」を求めているのにも日本人が少なくないし、何より「日本の問題」として扱っているんだからどう考えたって日本人の仕業だ。
まあともかく、日教組等々のうわ言には耳を貸さないことだ。本当に在日のことが気になるんなら、すぐに会いにいけるんだから本物に会いにいけばいいだけのこと。そして実際に会ってみればすぐ分かる。別に在日なんて小難しいこと考えて生きてるわけでもないってことが。
逆に「急速に縮小しつつある問題」である在日のことをギャーギャー騒ぐのは活動家の仕事そのものである。彼らは「在日」が無視されるのが恐ろしいのだから。
そしてこの「在日の活動家」たちこそが、多くの日本人の抱く「在日」のイメージそのものである。どういうことかおわかり頂けただろうか。
確かではないが、一つ思うことがある。それは「同和・部落・朝鮮」などと一括りにされることからも感じ取れる。
「在日問題」とは在日なる問題が存在すると主張することによって生活している連中がいる、という問題だということだ。
北九州の同和問題も基本的には「私は同和である」と主張することによって特別な地位を得ることが出来るという問題だ。市役所かどこかに「同和にしか就けない職」があるとも聞く。大体今では「新平民」が誰かなんて分かりはしない。同和とは同和会に所属している人間のことだ。そして同和会には新平民云々の審査なしに入れる(審査出来る訳も無い)。
部解同だって単なる利権団体。役立たずの労組(別に労組が役立たずと言ってる訳ではない)と大差ない。今はもう無いかもしれないが、部落だったと言われている部落(分かり辛いな)の真ん中に入っていって教会を立てていた創価学会の方がよほど立派だとしか言いようが無い。
幽霊の正体見たり枯れ尾花は有名な川柳だが、在日の正体見たり日本人と言ったところだろうか。
打倒すべき特権階級がいるとすれば、それは在日であり同和であるということをお忘れなきよう。活動家のみなさん。