ちょっと出かける前に色々と
パワーヘルス→今週中目処
エロゲちゃん→25日以降に勝負延期中
宗教法人→今から新ネタ探してくる
糞アニメ→暇を見つけたらやる、1クールなら人類が助かる
そう言えば防衛技術ジャーナル→再開予定、再開しない理由は詳しく書こうとすると内容豊富で疲れるから
自衛隊糧食企画→前例が無いことについて、官僚は身動き出来ないらしい。類:駒場祭官僚
エロゲちゃん→25日以降に勝負延期中
宗教法人→今から新ネタ探してくる
糞アニメ→暇を見つけたらやる、1クールなら人類が助かる
そう言えば防衛技術ジャーナル→再開予定、再開しない理由は詳しく書こうとすると内容豊富で疲れるから
自衛隊糧食企画→前例が無いことについて、官僚は身動き出来ないらしい。類:駒場祭官僚
俺がこんなに忙しいのは是か否か
12日1700-1930、13日1800-1930。
12日はS竹君がまた乱入してきましたがションボリして帰っていった。意味不明。
13日はS井君が中学生の頃「○」を読んでいたことを知り狂喜。俺も読んでた(る)。
自衛隊と五月祭委員会との協議が難航中。ヤバいくらい日程がおしてる。
何はともあれ英語1の認定試験に引っかかってますように。
12日はS竹君がまた乱入してきましたがションボリして帰っていった。意味不明。
13日はS井君が中学生の頃「○」を読んでいたことを知り狂喜。俺も読んでた(る)。
自衛隊と五月祭委員会との協議が難航中。ヤバいくらい日程がおしてる。
何はともあれ英語1の認定試験に引っかかってますように。
IN THE REALM OF A DYING GRANDMOTHER
伏見稲荷大社に行き教会の献上した鳥居を見てきました。興味深かった。
知らない方はイメージしづらいでしょうが鳥居の列で道が出来ています。その鳥居一本一本が誰かしらが建之したことになっています。面白かったのは「かわぐちかいじプロダクション」の鳥居くらいでしょうか。石で作れば明治大正から持ちますが、木で作ると2、30年で腐ってしまうようです。高回転ですな。
実は私は教祖様に直接お誘いを受けて伏見に行くことになりましたが、当日になって教祖様は具合が悪くなり伏見に来られませんでした。ともかく行くことにしたのだし時間は沢山あるのだから京都の知り合いに嫌がらせでもしようと思いましたがこれが誤算。まあ色々あって結局は夜9時前に就寝する健康生活。
結論から言えばこれは物見遊山ですな。儀式・行事のつもりで行ったのに残念至極。教祖様も山道が歩きたくなかっただけのようで、一種の仮病みたいなもんですか。「教祖、仮病」で一本の作品が作れそうな気分。
前置きはこれくらいにして権力闘争について。
教祖の孫という何ら本質的でない理由により、本来一信徒に過ぎぬ私はしばしば「下にも置かれぬ」扱いを受けます。教祖様が居る場合は教祖様自身が居るのですから何ら問題は起きないのですが、では教祖様が居ない場合はどうなるのか。ここが微妙なのです。
私は教祖でも教主でも無いのだからそのようには扱えない。かと言ってその他大勢のごとく扱うのも難しい(らしい)。そこで私はちょうど「神輿」のような扱いになるのです。丁重に、しかし出来るだけ軽い方が良い。「担ぐ神輿は軽い方が良い」を地で行く訳です。従って常に私は先頭に立ち、そして常に号令は「(教祖様の)お傍仕え」の人たちがするのです。宿泊時も他がタコ部屋に泊まる中で私は一人きりで一つ部屋を使います。これが教祖様なら直接のお世話係が付き、隙に乗じて相談に来ようという人が機を窺っています。しかし私の部屋に来ようとする人はまあ同年代の人しかいません。
さて、そこで私はどうするか。簡単です。
勝手にやるのです。先頭に立ち、後ろを気遣いつつも、経をあげるのもお参りするのも好き勝手にやります。すると必ず「お傍仕え」の人たちが出て来て親切にも「指導」してくれます。しかし誰が「教祖の孫」が「自らの宗教」に立ち「個人的(宗教)活動」を行うのを止めることが出来るのでしょう。
と言いたい所ですが、実はこれは的外れな見解です。「お傍仕え」の人々が指導しているのは本質的には私ではなく、その後ろに多数付いて来ている信徒たちなのです。彼ら自身では宗教法人など作ることも出来ない人々ですが、教祖様の後ろにくっついて重鎮面していれば彼らの後ろには沢山の(教祖様を慕う)人々がついてきます。中には「自分でも宗教法人を作ろうとしたがダメだった」などの分かり易い人もいます。
これ以上の部分については万が一もありますので少し考えてから続けるかどうかを決めます。
(取りあえず続く予定)
知らない方はイメージしづらいでしょうが鳥居の列で道が出来ています。その鳥居一本一本が誰かしらが建之したことになっています。面白かったのは「かわぐちかいじプロダクション」の鳥居くらいでしょうか。石で作れば明治大正から持ちますが、木で作ると2、30年で腐ってしまうようです。高回転ですな。
実は私は教祖様に直接お誘いを受けて伏見に行くことになりましたが、当日になって教祖様は具合が悪くなり伏見に来られませんでした。ともかく行くことにしたのだし時間は沢山あるのだから京都の知り合いに嫌がらせでもしようと思いましたがこれが誤算。まあ色々あって結局は夜9時前に就寝する健康生活。
結論から言えばこれは物見遊山ですな。儀式・行事のつもりで行ったのに残念至極。教祖様も山道が歩きたくなかっただけのようで、一種の仮病みたいなもんですか。「教祖、仮病」で一本の作品が作れそうな気分。
前置きはこれくらいにして権力闘争について。
教祖の孫という何ら本質的でない理由により、本来一信徒に過ぎぬ私はしばしば「下にも置かれぬ」扱いを受けます。教祖様が居る場合は教祖様自身が居るのですから何ら問題は起きないのですが、では教祖様が居ない場合はどうなるのか。ここが微妙なのです。
私は教祖でも教主でも無いのだからそのようには扱えない。かと言ってその他大勢のごとく扱うのも難しい(らしい)。そこで私はちょうど「神輿」のような扱いになるのです。丁重に、しかし出来るだけ軽い方が良い。「担ぐ神輿は軽い方が良い」を地で行く訳です。従って常に私は先頭に立ち、そして常に号令は「(教祖様の)お傍仕え」の人たちがするのです。宿泊時も他がタコ部屋に泊まる中で私は一人きりで一つ部屋を使います。これが教祖様なら直接のお世話係が付き、隙に乗じて相談に来ようという人が機を窺っています。しかし私の部屋に来ようとする人はまあ同年代の人しかいません。
さて、そこで私はどうするか。簡単です。
勝手にやるのです。先頭に立ち、後ろを気遣いつつも、経をあげるのもお参りするのも好き勝手にやります。すると必ず「お傍仕え」の人たちが出て来て親切にも「指導」してくれます。しかし誰が「教祖の孫」が「自らの宗教」に立ち「個人的(宗教)活動」を行うのを止めることが出来るのでしょう。
と言いたい所ですが、実はこれは的外れな見解です。「お傍仕え」の人々が指導しているのは本質的には私ではなく、その後ろに多数付いて来ている信徒たちなのです。彼ら自身では宗教法人など作ることも出来ない人々ですが、教祖様の後ろにくっついて重鎮面していれば彼らの後ろには沢山の(教祖様を慕う)人々がついてきます。中には「自分でも宗教法人を作ろうとしたがダメだった」などの分かり易い人もいます。
これ以上の部分については万が一もありますので少し考えてから続けるかどうかを決めます。
(取りあえず続く予定)