Study Hard -485ページ目

なんか神奈川の大会

 があった。
 学会は一言で言うと「熱い」。
 二言で言うと「熱くて騒がしい」。
 三言で言うと「熱くて騒がしくてチャラい」。

 とにかく「何とか本部長」とかいう肩書きの人たちの話が長い。時間を守れない。発表時間15分のところを30分平気でやる感じ。しかも内容は結局「折伏しようぜ」。じゃあそれだけ言え。
 一方で池田先生は誰も文句言わないのに長時間話さないよう注意してる。偉い。先生を出せ。

 今日の内容は一言で言えば「折伏」。まず折伏。信心の前に折伏。折伏されて入った訳じゃないのでやり方が全然分からない俺にも折伏。

 という訳で暇人は俺と一緒に学会の集まりに来いというのがこの文の主旨。

 あと某所で「親が反対」という黄金ケースが発生。早速行って来ます。それで親を罵倒してくる。
 「お前学会ごときを宗教呼ばわりするとは、宗教舐めてんのか」
 「息子の所属する趣味のサークルに一々ケチつけんな」
 「全部妄想なんだよ」
 「反対する前にお前らが入ってみろ」
 「名誉会長は関係ねえだろ」
 など種々のケースを想定したイメトレに励みます。むしろ単独で親と会見しようとしたが、それはG長(グループ長)から止められた。

創価教育学体系

 信濃町で買って来て読み始めました。文章で書いているとダラダラと長くなるので箇条書き形式と補足という形で思った事を。

 ・「教育学の科学的建設」という文言に代表される精神は非常にもっともである
 内容は一貫して教育学。それ以上でも以下でもない。

 ・内容に引用ないしそれに準ずる部分が多く、また誤解も多々見られる
 やれコントだやれカントだやれマルクスだと引用等が多い。しかしこれは当時の「文学青年」的特徴であり(青年ではないが)何ら違和感を覚えるところではない。また池田先生もこの「文学青年」的気分を非常に色濃く受け継いでいると思われる。

 ・真理を語らず利について語る
 真善美ではなく利善美について語る。まだきちんと内容を把握していないが、この「利」というのは非常に社会寄りの概念らしい。
 しかしそうだとすれば今日の学会員の真理然として法華経を称えるさまには違和感を覚える。しかも法華経を称えるくせに法華経の勉強しないで日蓮の解釈を有り難がるし。

 ・創価
 人間は真理・物質などを創造することは出来ない、「吾々が創造し得るのは価値のみである」。すなわち創価。

 ・経済学
 まるで似而非マル経の本を読んでるような気分にもとらわれる。またマーシャル経済学の影響と見られる部分も多々有る(無い方がおかしいのだが)。但し誤解が多いようだ、特に「価値論」とその前提を為す「認識論」および「認識の主体」に関する部分は非常に詰めが甘いという感じを覚えた。

 ・「宗教」
 一貫して法華経を持ち上げている。というより他の宗教、宗派の話があまり無い。
 持ち上げているというか引用しているというか、そういう意味で言えばコントだのカントだのマルクスだのもそうである。法華経に特別の思い入れがあるというよりは、単に当時の「文学青年」の嗜みとしての法華経という程度なのかもしれない。もちろん深い考えがあるのかもしれない。
 ちなみに法華経を非常に「科学的」として誉めている。「社会主義は科学だ」のノリ。

 「法に依りて人に依らず」という釈尊最後の言葉を引用しているが、これは後世の付け加えらしい。そうすると色々前提条件に問題が出るのだが…まあいいや。
 なお牧口先生(創価教育学体系を書いた人)自身が昭和3年に日蓮正宗に入信している。その2年後創価学会が誕生する(公式にはそうなってる)。この当時はまさに学会であった、はず。

 ・元ネタ
 とにかく「元ネタ」の匂いがする部分が多い。どのような元ネタかと言うと「岩波文庫白」辺り。それ自体は悪くないのだが、そういった部分やどうでもよさそうな部分を削るとかなり内容が圧縮される気がする。
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 これこそ私が学会に抱いていたイメージである。しかし、だとすれば現在の学会は一体何なのか。
 私は牧口先生と池田先生の間で意外と話題にならない戸田先生(でもおそらくは学会最重要人物)が何かやったんじゃないかという気がしている。でも実際は良く分からない。

 とにかく現在の創価学会では創価教育学体系が忘れ去られているというのはほぼ事実。でも残っている部分もあるようだ。例えば経典の中に最後まで方便品第二が残った辺りとか。

色々あるが

 一つだけ聞きたい事が有る。

 25日は誰か学生会館に居たのか?