Study Hard -404ページ目

暗号

 なるほど、吉村昭氏は20-5だったのか。会員短信に大正の文字が無くなった。残念至極。
 平成7年卒の人が傍系さんと同級生か。自民党で6人。

無題

 本当に宗教法人のアンチはアレだな。宗教法人みたいな難しい場所は、向かない人には危ないよ。

 ということで崇教真光に行こうかと思案しとりましたが、霊波之光調査命令が出ました。でも運河は遠いんだよなあ。それに謳い文句から考えると、学会を柔らかくして規模を少し小さくした程度のものっぽいし。
 暇なおばさんの社会奉仕活動みたいなものが生存する余地も無いような厳しい環境がいいよね。永平寺みたいに観光化してるのもダメだし。永平寺って門の前に2時間突っ立てると入門出来るらしいよ。弱い。

しかし思うにね

 殊更問われてもいないのにオタク嫌いを標榜するというのは、自らの趣向を積極的に露出するという点で多くのオタクと同等なのではないかと思ってしまった。そんな穴に落ちてまでオタク嫌いを標榜してみせる人が何故後を絶たないのかというのを少し考えてみた。

 オタクが嫌いであるというのは、その意味を深く考えないとして、個人的な好悪である。そして、「あの人は善人だ」というのと同じように「あの人はオタクだ」というのは状態や性質を表す用語であり、性質などに対して主観的な評価を付け加えるのは容易だ。つまり、身近なものとして「オタク」が自己アピールの道具として使われたのではないかと思った次第だ。
 私はここで、多くの自称平和主義者たちにとって実際には平和構築などどうでも良く、反戦・平和主義をアピールすることによって自らの善良さを展示して見せるだけの活動に堕落していることを連想した。それでは、実際にはオタクなどどうでも良いとして、オタク嫌いを標榜する事によって自らが獲得する評価とは何であろうか。そしてそれはどのような考え方の人間に満足感を与えるのだろうか。それからもう一つ、このような人たちがオタク嫌いを標榜するのは、オタクたちに対してではまず無いということも考慮する必要がある。反オタク活動をしている人たちも居るのかもしれないが、寡聞にして良く知らない。

 これは取りも直さず、オタクに対して付与されている社会通念のようなものを探ることになると思う。もう少し正確に言えば、いわゆるオタク層から遠い人間のオタク観を探るということになろうか。
 しかもそれは「気持ち悪い」とか「得体が知れない」とか「不愉快」などという漠然とした評価よりもかなり具体的だとも考えられる。ある人が自分をアピールする時に「私は気持ち悪いものが嫌いです」とか「私は得体が知れないものに恐怖を覚えます」とか「私は不愉快なことが嫌いです」などと言ったりはしない。もっと具体的で、ある程度その人の個性や趣向が反映される内容であってこそ、はじめてアピールになり得るのだから。例えば「オタクは小理屈を捏ね過ぎる」くらいの具体性は欲しい所だ。こうすれば、オタク嫌いの私は小理屈を捏ねない「感覚的な人」なんですよ、というアピールに繋げる事が出来る。あくまでも例えだが。
 逆にもっと漠然としているのかもしれない。それこそオタクを悪人に完全に包含したとすれば、オタク嫌いを標榜するのは即ち悪人嫌いを標榜することであり、「俺は悪人は赦せんのだ」などと言っているのと同じになる。つまり、オタク嫌いの私は「とにかくダメな人が許せない」んだよね、などというアピールに繋げるかもしれない。

 うーん、分からない。一般人の闇は深いなあ。