Study Hard -318ページ目

あれ……?

 いま思い出したんだけど、講義最終日に試験ってことはもう終わってるよね。数学の方で先生にもう一年やれと言われた以上、最早どうでも良かったんだけどね。
 来年度はこういうことの無いようにしよう。

 で、アレだ。高校時代からの数少ない友人に「お前のブログを見てても自治会叩き以外やってるように見えない」とかなんとか言われたので同じブログ上で弁解しておくと、他のことの方が沢山やってる。比率にすると大体以下のよう。

数学……2
宗教……3
軍事(含むウォーゲーム)……2
自治会関連……1
pとか……1
その他……1

 実は数学が一番じゃないのがモニョるが致し方あるまい。しかし記述される割合とはこれとはまったく異なるので、何の繋がりもない人がこのブログを見て自治会関係で1割しか労力を割いていないとは思わないだろうなあ。
 何にせよ、社会科学に対して無用に確率微分方程式を使おうとするような学者気取りのド素人にはならないようにしたいものだ。

なんだこれは

 朝っぱらから新聞に気味の悪い4色マークで埋め尽くされた広告版がついてきた。まだスーパーのチラシの方がマシだろ、いい加減にしろ。こんな変なのじゃなくて3色旗なら大満足なのに。

金満貧民窟

 これは巡りの方の記事ではないけれども、一応文章化して残しておこうと思ったので。

 昨日教祖様が「ウチには他でみんな金をなくしてしまった人ばっかりが来る」と言っていたので、とても気分が良かった。昨日は例によって息子たちの相談に夫婦が来たそうだ。何百万もする仏像が家に何体もあるそうで一度見学してみたいところだ。

 ところで巷では「霊魂」に類する概念を積極的に使うという点でスピリチュアルと同列に分類されがちな先祖供養についてだが、多くの人たちは「原因を自分でなく先祖に求めるというある種の責任転嫁による」気休めの一種だと思っているらしい。残念だがそれだけでは先祖供養の意味を十分に説明したとは言えない。そこには「誰が」先祖供養を行うのかという最も重要な視点が抜けているからだ。まったく驚くべきことだが、先祖供養には先祖供養によって自分が良くなるという効用が必ずしも求められているのではなく、先祖供養は「他人が耐える」ためのものでもある。
 例えば昨日来た夫婦と息子にしても、息子の問題点は宗教家でなくともはっきりしていた。だから教祖様は息子にはごく普通の実際的な解決法を与え、それを忍耐強く実行するため作法を教えた。そして宗教法人は、社会でどこにも行き場の無いその息子をいつでも迎え入れる数少ない場所の一つでもある。一方で、母親に対しては先祖供養を勧めていた。ここで注意すべきことは、教祖様は別に息子を良くするために先祖供養を勧めていたのではなく、単に「母親が耐えるために」先祖供養を勧めたのだ。言い換えれば「母親は先祖供養でもして息子が良くなることを必死に祈り続ける以外どうしようもない状況」がそこにあることを意味している。教祖様がいつか言った「でも私たちには他になんもできんがね」という言葉はそれをよく表している。

 またこれは我々にとっては、宗教法人の有り様に関する重要な示唆を与える事実になるかどうかが一つの焦点になっている。つまり常々言っている「宗教法人は人を救う場所ではない」ということを考える例になる。
 仮に息子が自分から宗教法人に来て共に悲しむならば何の違和感もない。しかしいま共に悲しんでいるのは息子ではなく母親であるというのが、気休めや作業仮説に満ちた従来宗教の堕落を彷彿とさせはしまいかという疑念に駆られる。現にこの息子に与えられたのは実際的な解決法であって宗教とは何の関係もない。

 人を救わない宗教法人において母親に対して先祖供養(という宗教とは関係ない技術)と同等の効用をもたらす宗教上の何かを開発する必要があるのだろうか。
 あるいはそんな人間に与え得るものは無いのではなかろうか。現に私が一体いつ他人を連れたり他人に連れられて宗教法人の門を叩いたことがあるというのだ。