Study Hard -309ページ目

……何故だ

 今日はもう3時間も数学をやった。という夢を見たような気分。実際には数学はおろか昼寝すらしていない。

 今日のA級戦犯(俺に対する罪)。
 1.マクミラン新編世界歴史統計 (2)
 2.ρ
 3.特製タンタン
 4.グレープフルーツジャム

娯楽目的未成年略取(親告罪)

 1890年から1920年の日本近代経済史を経済統計に照らし再構築する作業を行いつつ思ったが、学校というのは恐ろしいところだ。何度でもそう思う。

 例えば、「中立的立場」を重んじる「物理」の中学教師が居たとすると、この人は授業中に「この宇宙には神のおわす中心があり、そこを中心として世界が斯くも有り続けるならば、成行きはすべて運命付けられている」と主張していることになるはず。そして授業とは真理を伝えることに他ならない。しかもこの先生が仮に他の立場を採っていたとしても、さまざまな社会的存在によって「この主張」以外の主張を教えることを制限されていることになる。
 それに比べてみれば、数学の教師はせいぜい道具の構造でなく道具の使い方ばかり教えているという程度のことだから、まだ問題は少ないだろう。ただ、数学は道具だという観念を与えたとしたらそれはそれでアレな話だが。それより数学教師が公理的に中立的立場という概念を使ったとしたら多くの人は「偉大な狂気」を目の当たりにした気分になるだろう。あるいは無定義用語として使うならばそれはそれで問題ない、と言うよりは問題にしようがない。

 いわゆる「文系科目」はいわゆる「理系科目」に比べれば文献学的傾向が強いためか狂気に触れる頻度は少ないように思う。命題を設定するためのメタ命題のようなものが見え易いためか、急に「中立的立場」を掲げて対象を一般的に記述しようとする人は少ない気がする。逆にそういった議論の必要性が低いためか、自分がどのような立場に立っているかを意識しない人はより多いように思う。
 「文系科目」というよりは社会科学の範囲において、用語を日常的なものから流用するという暗黙の了解も関係してか、自分が何らかの立場に立っているということ自体を意識しない例が多いのは否めない。例えば、歴史観というものは何よりも「歴史的事実として何を列挙するか」ということこそが最初の焦点であるはずなのに、事実として取り出されたことや何かを事実として取り出すことに対して評価を付与することをしてのみ歴史観と称する例が多過ぎる。他人と同じ事実にしか注目しない(つまり同じ認識しか無い)ならば、そこには歴史の統一的理解・解釈という要請はほとんど入っていない。歴史が既に唯一のものとして固定されているからだ。
 これは歴史が完全情報であるという前提が必要かもしれないが、まあその辺は長くなるので省略。

 それで冒頭の関連で世界史(世界史とは一体何を中心に記述した体系のことなのだろうか)の教科書を見たのだが……狂気にすら至ることが出来ないのは不幸なことだと思った。世界史ではなく世界統計という授業が開講される日を願って止まない。

 結論:「文系」には狂気が足りない。

命名権

 祖母、自分、妹の名前に光がついているのは誰も知らない事実だが、もし子供が出来たら名前を「チェレンコフ光」にしようと思う。妹の。