統計が統計に統計する統計 | Study Hard

統計が統計に統計する統計

 日課の監視業務に勤しんでいたところ、鴻巣のはてブで相対的貧困率とかいう指標の話を見つけた。
 子どもたちは、また、どうでもいい言い争いをするのだろうが、恐らくは、誰一人として、どのようにしてその結果が出たのかは問わないだろう。
 幾らでも数字をいじれる困った指標ではあるが、恣意的だから役に立たないとは言えないので、とりあえず指標そのものの是非は問わない。

【統計】
 アルフレッド・マーシャルが貧困の撲滅を掲げてからかなりの時間が経った。30ポンドの収入だった労働者たちが150ポンドの収入になったのかどうかは定かでないが、幾つもの指標が必要になるほど人間が豊かになったのは間違いないだろう。
 失業が死を意味しなくなったこの驚くべき時代にさえ、結局、失業のモデルは明らかでない。だいたい、フィリップス曲線についてさえ、まだよく理解できているとは思えない。あなたがマネタリストでなければ、だが。
 それはともかく、例の指標についてだが、分かる範囲で考えるとこうなる。平均値でなく中央値を利用した理由は、恐らく、世帯の所得が正規分布しないから である(元々しない)。中央値を利用した理由は、それが平均値よりも高いか低いかのどちらかだからである。つまり、何も分からない。ましてや、中央値の半 分が何を意味するかなんて、突然数字だけ聞かされてもさっぱりである。
 明らかにすべきは事実であり、その事実と統計の関係をどう捉えるかである。

【解釈】
 件の指標をよく見てみると、世帯の可処分所得を世帯の人数の平方根で割るとなっている。恐らく、世帯のうち何人が働いているかを総合的に近似するための作業だろう。
 4人家族なら2で割ることになるのだが、ここで面白い事実に気付く。失業率の計算でもよく言われることだが、いわゆる専業主婦をどう計算するかである。 家事に専念しているだけなのか、パートの口がないので家事に専念しているだけに見えるのか、その辺りの判定が難しいわけだ。
 中央値の半額は114万円のようだが、1人暮らしだとすると、どこぞのフリーターの話かとなる。一方で、3人か4人暮らしで1人しか働いておらず、最低 賃金に近い程度の収入しかないとすると、おおむね対象の層に該当する。もちろん、いわゆる失業者はそのまま計算に入る。2人世帯の解釈に苦しむが、母子家庭で派遣社員あたりか、あるいはフリーターとヒモのカップルといったところか。それも元データがないので分からないのだが。
 要するに、これは、失業者と定職につかない人と専業主婦の形をした事実上の失業者の統計になっていると考えられる。以前から、日本の失業率はもう少し高いのではないかと言われていたが、ちょうどそれに対応する統計と見るのが妥当だろう。と言っても15%も失業している計算にはならないので、期待した人は悪しからず。

【貧困】
 ところで、派遣社員しかできない屑、貧困で心中直前に宗教法人に駆け込んで来る家族、こういった人たちは、低学歴だからそうなのか、元々の家庭が貧しいからそうなのかといえば、必ずしもそんなことはない。むしろ、奇妙なプライドやこだわりによって、首を吊る寸前まで勝手に追い込まれているケースの方がずっと多い。社会が彼らを救えないというよりは、彼らに社会が合わせないのが悪かったとしか言いようがない。
 彼らは、高校はおろか大学まで出た挙げ句に使い物にならない屑であり、むしろ一般人より知識も技術もある上での一家心中状態なのである。中学も出ずに走り屋をしていただの、何の取り柄もなく常に最下位で高校を出ただの、そういった経歴の人たちがまったく健全に社会生活を営んでいるのとは対照的とさえ言える。
 彼らを救うのが一応の約束であるので、祖母も父も、そして私も、何とか努力をしてきた。その結果、人間は人間を変えられないゆえに、人間は人間を救えないのだと言わざるをえなかった。彼らに所得を移転し続けることによって外観上救うことはできても、それはもはや宗教本来の仕事だとは言えないだろう。

【救済】
 確かに救われた人たちもいたのだが、彼らは勉強をし、教育を受け、そして成果を挙げるに至った。あるいは、父の言う通りに仕事をした結果、衰退産業から成長産業にシフトできたというようなことでしかない。これは教育であり経営でこそあれ、宗教における救済なのかと聞かれると困ってしまう。肯定も否定もできない。
 私の確信するところは、何より必要なのは学問であり、学問の険しい道のりに耐えうる宗教であるということだ。宗教の最底辺で暗中模索するほどに、ますますその想いは強固になる。
 政治が学問の場を整備することはできるだろう。しかし、その場に喜んで身を投じるのは宗教だろう。私の思索の中では、政治と宗教は合一し、学問にすすんで身を投じるものだけが救われなくてはならない。低所得に耐えるよりも学問に耐える方が遥かに辛い。耐える段階から歓喜に至ることを強要するのは至難の業である。それでも進まなくてはならないと、果たして政治が言えるのだろうか。私の知ったことではないが。

【蓄積】
 所得の再分配機能としての宗教法人は、行政の補完としてこれからも必要とされるだろう。しかし、宗教法人が真にすべき事業は、世界を最も長く生きる主体として、分の悪い賭けに興じることである。その賭けの名前を蓄積と言う。蓄積すべきは何であろうか。美術品を蓄積すれば世界救世教だろう。本当にそれで良いのか。
 信仰とコミュニティーと学問の交叉点が、宗教法人と蓄積なのである。