大乗有限
直接ある命題を解くのが困難な場合は、等価な命題などを経由するとよいことがある。任意のベクトル空間が基底を持つことを、選択公理から直接示すのは困難だが、ツォルンの補題を経由すると簡単になるようなものだ。
トインビーにしてもそうだが、最高存在の存在定理(公理)からいきなり諸命題を考えるのは無理があるのではなかろうか。そこで、次のような主張を考えた。これが最高存在とどう関係あるのかは、まだ考えていない。
宗教が扱う命題は、個人にとって、その個人と直接関係ないものである。
これだけだと意味がわからないが、個人の生死と関係ないという意を包含していると言えば少しわかりやすくなるだろうか。つまり、個人が死ねば終わる問題には、なんらの宗教性はないと言いたい。
ここで少々面倒なのが、個人の生死は個人の生死と何ら関係がない。といってもラッセル集合のようなことを言いたいのではなく、個人が生きたり死んだりすることは、個人が死んだから前提ごと消滅するわけではないということだ。
この主張はすでに非構成的なものを含んでるな、そういうことか。
【近代と存在定理】
神の存在定理を選択公理に対置する。どちらも、認めても認めなくても1つの体系を作れる。近代の構成主義ぶりを、その公理系の選択として説明する手法として思いついてみた。神の非存在とは、選択公理の除去であり、近代の構成主義と一致する、という感じで。
してみると、相も変わらず、人間は神に無限を託したのだろう。有限なる人間が無限なる神とどう関わるか、という発想である。完全な有限主義をとってしまえば、(実)無限など存在しないとなる。
それに対して、この世界も人間も無限なるものの内にあるとすれば、実に汎神論だ。本当か?
【わたしのシューキョー観】
無限なるものの内に有限を観想する能力を人間は与えられた。有限でないものが無限なのではなく、無限ではないものが有限である。
生きるという概念自体が有限的である。人間は自己を無限の内から切り取り、有限なるものとして認識した、というわけだ。実直線から線分を切り取る作業が生死を分つことである。その線分の長さは有限だが、その線分の濃度は非可算である。生を有限的構成的に記述しようとしても、その非可算性によって不可能であり、同時にその有界性によって...
なるほど、プリミティブな人間の感覚だと、有限と有界の区別がつかないのか。
してみると、カントールの異常性が際立つ。いや、カントールこそ正常だったのだ。すべては無限の彼方へと還る。近代で最初に足場を無限に移した人だったのかもしれない。近代最初の無限人は、精神病院で死んだ。そこもまた無限だったのだから、何の雑作もないことだ。
近代人が有限性を重んじたなら、現代人はコンパクト性を重んじてはどうだろうか。有限な「部分」さえ含めば記述できるのであって、無限は無限のままに、というわけだ。そして、有限なる近代は完全にコンパクトに包含される。
【用語説明】
位相空間のある部分集合がコンパクトであるとは、その集合の任意の開被覆が有限部分被覆をもつこと。ユークリッド空間の場合は、有界閉集合と同義。
トインビーにしてもそうだが、最高存在の存在定理(公理)からいきなり諸命題を考えるのは無理があるのではなかろうか。そこで、次のような主張を考えた。これが最高存在とどう関係あるのかは、まだ考えていない。
宗教が扱う命題は、個人にとって、その個人と直接関係ないものである。
これだけだと意味がわからないが、個人の生死と関係ないという意を包含していると言えば少しわかりやすくなるだろうか。つまり、個人が死ねば終わる問題には、なんらの宗教性はないと言いたい。
ここで少々面倒なのが、個人の生死は個人の生死と何ら関係がない。といってもラッセル集合のようなことを言いたいのではなく、個人が生きたり死んだりすることは、個人が死んだから前提ごと消滅するわけではないということだ。
この主張はすでに非構成的なものを含んでるな、そういうことか。
【近代と存在定理】
神の存在定理を選択公理に対置する。どちらも、認めても認めなくても1つの体系を作れる。近代の構成主義ぶりを、その公理系の選択として説明する手法として思いついてみた。神の非存在とは、選択公理の除去であり、近代の構成主義と一致する、という感じで。
してみると、相も変わらず、人間は神に無限を託したのだろう。有限なる人間が無限なる神とどう関わるか、という発想である。完全な有限主義をとってしまえば、(実)無限など存在しないとなる。
それに対して、この世界も人間も無限なるものの内にあるとすれば、実に汎神論だ。本当か?
【わたしのシューキョー観】
無限なるものの内に有限を観想する能力を人間は与えられた。有限でないものが無限なのではなく、無限ではないものが有限である。
生きるという概念自体が有限的である。人間は自己を無限の内から切り取り、有限なるものとして認識した、というわけだ。実直線から線分を切り取る作業が生死を分つことである。その線分の長さは有限だが、その線分の濃度は非可算である。生を有限的構成的に記述しようとしても、その非可算性によって不可能であり、同時にその有界性によって...
なるほど、プリミティブな人間の感覚だと、有限と有界の区別がつかないのか。
してみると、カントールの異常性が際立つ。いや、カントールこそ正常だったのだ。すべては無限の彼方へと還る。近代で最初に足場を無限に移した人だったのかもしれない。近代最初の無限人は、精神病院で死んだ。そこもまた無限だったのだから、何の雑作もないことだ。
近代人が有限性を重んじたなら、現代人はコンパクト性を重んじてはどうだろうか。有限な「部分」さえ含めば記述できるのであって、無限は無限のままに、というわけだ。そして、有限なる近代は完全にコンパクトに包含される。
【用語説明】
位相空間のある部分集合がコンパクトであるとは、その集合の任意の開被覆が有限部分被覆をもつこと。ユークリッド空間の場合は、有界閉集合と同義。