宗教法人は芝居をするところではござらぬ | Study Hard

宗教法人は芝居をするところではござらぬ

【喩若樹無根】
 私は、父が言うほどラディカルには、他人の言葉を僅かに聞けば直ちに相手のことが理解できるとは思えない。しかし、幾つかの言葉については、聞けば直ちにその者が宗教者としてどの程度のレベルにあるか理解できると思えるようになった。
 それは、その人が求めているかどうかに関する言説である。低レベルが吐き散らす代表的な言説は「求めていないのに(運良く)到達した/得られた」というものだ。今日まで、この手の言説にはただ悪寒をもってするしかなかったが、今朝父と話をしながら、少しほぐれて来た気がした。

 第一種の誤りと第二種の誤りという分類がある。火災報知器でいえば、第一種の誤りとは鳴るべきでないときに鳴ること、第二種の誤りとは鳴るべきときに鳴らないことを意味する。
 人間の思い上がった感覚からすれば、求めて得られるか、求めず得られない状態は何の問題もない。そして、求めて得られないのも常である。それでは、求めず得られたという主張はどうなるだろうか。これこそ、第一種の誤りに他ならないのではなかろうか。
 火宅に身を置き焼き焦がされている凡夫に向かって、あの連中は「ウチの報知器など常時鳴りっ放しですよ」と自慢しているようなものではないのだろうか。鳴らなければならない報知器は燃えている家のものだけである。

【以下略】
 久々に9割以上の文章をカットした。

 宗教者の影響力は膨大であり、たった一言が他人の人生を破滅させる。逆もありうる。それとて宗教者にとっては他愛もない一言に過ぎない。
 宗教者は口を慎まなくてはならない。雑談などという概念は許されないし、今日の天気のことを述べるのもやめておいたほうがいい。
 祖母も父も、何度もそれを経験した。さらには「先生がそう仰ったので」と何度言ってもいないことを言ったことにされただろう。もちろん、こんなことはどこにでもある話だ。ただ、宗教者の影響力は凄まじいということに過ぎない。

 私も、あと一言あれば、——を一片も残さぬよう燃やしに行くというのに。

 具体名はやめておこう。なんせ俺は本当にやるからな。