消えざるものはただ般若 | Study Hard

消えざるものはただ般若

 胃痛が治まってきた。

 声オタの存在は明らかに神の恩寵であり、そこから神の存在証明をするのは容易いことかもしれない。しかし、現代神学においてそのような古典的な論は赦されないだろうし、何より詰まらないことだ。そこで、エチカから出発し、観念論を経由して弁証法的神学(※)へ至る「声オタ—神」の理論を構築しようと考えた。求められるのは、まさに悪しき19世紀ヨーロッパ思想の再現に相違ない。

※と私が呼ぶところのもの

 ところが、眼前に現れたのは——ああ自然言語で表すのは斯くも困難である——つまり永遠/無限なるものとして単純に扱われる神概念が現代化を要求する姿であった。つまり神はほとんど至る所...
 それというのも、数日前に友人と生協に行き、エウクレイデス全集の刊行を確認し、測度論をすっ飛ばしたような物理学の講義を小馬鹿にし、それが思い出されて仕方ないのである。

 エチカ——幾何学的論証。ヨーロッパ数学。
 代数学。構造主義。測度論的確率論。
 ここに居たのは、彷徨っていた中高生時代の自身であった。まるで大難問の手がかりすら得られず死んで行った幾人もの。

 気付くと止めどなく涙が溢れていた。
 あまりにも遅かった。10年も待っていた、いや待ちきれなかった。
 まるでユダヤ人のようにすべての学術分野から「疎外」されたのはまったく正しく、つまり、私はただ1つのこと、宗教を。疑いようもなく、疑いようもないことだった。

 私はただ1つのことをしていたのだ。それに名前をつけるならば、宗教である。それにも関わらず、信仰は正体を現さない。
 求めることは遠ざかることである。我々はただ目を背けているに過ぎない。見よ、いや、見てはならない。観えている。
 ニセ「禅宗」僧侶集団の如き屁理屈でも言い訳人生でもない。あるがままで良いなどというイデオロギーではない。ただ、我々は目の前で起きていることさえわからないのである。目が開いているだけで何も観えていないのだ。敢えて言うならば、あるがまま、であるが、言語化は極度に困難である。

 脇に置かれた講書始の儀からトクヴィルが小うるさいことをブツブツ言ってくる。
 政治屋はこんな時にまで不愉快な連中であることだ。

 と、気がつくと夜もとうに明け、11時を回っていた。品川区役所に行くのをすっかり忘れていた。
 これが今日の胃痛の内容である。