学校でしか教えてくれない大切なこと
【享楽家たち】
学者たちが「牽制」しあっている様子ほど面白いものはない。アカデミズムにおいて批判とは娯楽である。
剣には剣を、ペンにはペンを以て対応するのが正しく紛争的である。ペンに対して剣で応じる人間を野蛮、剣に対してペンで応じる人間を夢想家という。紛争は、少なくとも当事者以外にとっての娯楽であり、当事者にとって深刻であるほど娯楽性は強い。
【近代から現代へ】
やはり人間は、あるいは言語の構造は、肯定よりも否定に向いているに相違ない。そうだとすれば、肯定とは否定の否定であるのかもしれない。これによって総ての肯定ないし否定の言説は否定の中に体系化された、という妄想はどうでもよい。
肯定的言説(※)は慎重かつ補強的であり、まるで厳かな儀式を見ているかのようである。これを口語的に表現すると「先生の仰る通りです」となる。一方で、否定的言説は躍動感に満ち、賑やかな祭りを見ているかのようである。これを口語的に表現すると「先生の仰ることはもっともですが」となる。
※表現が難しいが、肯定命題ではなく特定の文脈における「肯定的」命題群
ところで、肯定的言説は一見すると力強く主張され、否定的言説は一見すると慎重かつ厳かに宣告される。しかし、これらの表層は何ら娯楽的側面における本質を構成しない。肯定とは体系というレンガ塀の穴を塞ぐ作業、否定とは穴をつついて広げる作業だとでも思えば理解されるだろう。
そう、ここで最も重要なのは、肯定ないし否定はその命題に対する態度として「等価」だということである。それは上記の「儀式と祭り」という表現から察して頂けたかと思う。私たちは大なり小なり、肯定と否定のどちらが正しいのかという観点に陥る間違いを犯している。しかし、口論の勝敗に事実は無関心であることが繰り返し示され続けている。
【娯楽としての学問】
口論に際して、まるで自分たちが裁判でもやっているかのように振る舞うことは良くある。確かに裁判は顕著な紛争解決手段ではある。しかし、同時に知っておくべきは、裁判は紛争の根本を解決しないこと、そして原告も被告も嘘ばかり言うことであろう。
まるで自分が相手の主張にうまく反論しおおせたかのような気持ちになったとき、もっと言えば自分が裁判で勝利しつつあるかのような確信に至ったとき、この時こそ自省が必要である。そこに至ったということは、つまり学問の本筋から外れたことを意味するからだ。しかし、そのような状態を鑑賞することは赤の他人にとっては愉快極まりない。どうせ双方ともに、より進んだ知見からすれば、本質的でない部分にばかり夢中になり猿芝居を披露しているに過ぎないことを私たちは経験的に知っている。
【典型的事例】
最後に、具体的に楽しめる部分について指摘して終わりにしよう。
ある言説への批判が為されたとする。それに対して、批判だけではなく対案を示せと言われるだろう。すると批判者は、自分は否定命題を解いたのみであり対案など必要ではないと応じる。ここで双方が双方を馬鹿扱いして物別れに終わる。
これはあらゆる場所で行われ、いつ見ても愉快なやり取りである。ちなみに、双方に一理はあるが、私は概ね「対案を示せ」派に好意的である。理由は数学をやればわかる(※)。
※この理由を否定することは不可能である。理由は数学をやればわかる。
学者たちが「牽制」しあっている様子ほど面白いものはない。アカデミズムにおいて批判とは娯楽である。
剣には剣を、ペンにはペンを以て対応するのが正しく紛争的である。ペンに対して剣で応じる人間を野蛮、剣に対してペンで応じる人間を夢想家という。紛争は、少なくとも当事者以外にとっての娯楽であり、当事者にとって深刻であるほど娯楽性は強い。
【近代から現代へ】
やはり人間は、あるいは言語の構造は、肯定よりも否定に向いているに相違ない。そうだとすれば、肯定とは否定の否定であるのかもしれない。これによって総ての肯定ないし否定の言説は否定の中に体系化された、という妄想はどうでもよい。
肯定的言説(※)は慎重かつ補強的であり、まるで厳かな儀式を見ているかのようである。これを口語的に表現すると「先生の仰る通りです」となる。一方で、否定的言説は躍動感に満ち、賑やかな祭りを見ているかのようである。これを口語的に表現すると「先生の仰ることはもっともですが」となる。
※表現が難しいが、肯定命題ではなく特定の文脈における「肯定的」命題群
ところで、肯定的言説は一見すると力強く主張され、否定的言説は一見すると慎重かつ厳かに宣告される。しかし、これらの表層は何ら娯楽的側面における本質を構成しない。肯定とは体系というレンガ塀の穴を塞ぐ作業、否定とは穴をつついて広げる作業だとでも思えば理解されるだろう。
そう、ここで最も重要なのは、肯定ないし否定はその命題に対する態度として「等価」だということである。それは上記の「儀式と祭り」という表現から察して頂けたかと思う。私たちは大なり小なり、肯定と否定のどちらが正しいのかという観点に陥る間違いを犯している。しかし、口論の勝敗に事実は無関心であることが繰り返し示され続けている。
【娯楽としての学問】
口論に際して、まるで自分たちが裁判でもやっているかのように振る舞うことは良くある。確かに裁判は顕著な紛争解決手段ではある。しかし、同時に知っておくべきは、裁判は紛争の根本を解決しないこと、そして原告も被告も嘘ばかり言うことであろう。
まるで自分が相手の主張にうまく反論しおおせたかのような気持ちになったとき、もっと言えば自分が裁判で勝利しつつあるかのような確信に至ったとき、この時こそ自省が必要である。そこに至ったということは、つまり学問の本筋から外れたことを意味するからだ。しかし、そのような状態を鑑賞することは赤の他人にとっては愉快極まりない。どうせ双方ともに、より進んだ知見からすれば、本質的でない部分にばかり夢中になり猿芝居を披露しているに過ぎないことを私たちは経験的に知っている。
【典型的事例】
最後に、具体的に楽しめる部分について指摘して終わりにしよう。
ある言説への批判が為されたとする。それに対して、批判だけではなく対案を示せと言われるだろう。すると批判者は、自分は否定命題を解いたのみであり対案など必要ではないと応じる。ここで双方が双方を馬鹿扱いして物別れに終わる。
これはあらゆる場所で行われ、いつ見ても愉快なやり取りである。ちなみに、双方に一理はあるが、私は概ね「対案を示せ」派に好意的である。理由は数学をやればわかる(※)。
※この理由を否定することは不可能である。理由は数学をやればわかる。