それ以上、いけない | Study Hard

それ以上、いけない

【解説】
 以下の文章は、野矢茂樹著「無限論の教室」の最初の30ページに関するレビューです。

【本文】
 野矢先生に紹介された「無限論の教室」を読んだ。正確には最初の30ページを読んだ。
 思わず膝を打ったり、笑いが止まらなかったり、考え込んだりするので、この本を有限の試行で読み切るのは大変な作業のように思える。

 この本は「物凄く」危険だ。
 本編の最初の3ページで既に「極めて」危険であることが示唆される。20ページも読めば、この本があまりにも「悪い」本であることが白日の元に晒される。
 何が悪いかといえば、この本がまったく初学者向けではないことを文体や構成によって覆い隠しているのが悪い。この本を読んだ「素人さん」は「ああ、いつもの話ね」などと勝手に誤解するだろう。まるで登場人物の学生のように。

 最初の30ページまでに、この本が時間論でないことがはっきりとする。つまり、高々「無限」の試行を有限の時間の中に位置付けるような写像を構成することを必要としない。
 もう少し具体的に言うと、ゼノンのパラドックスについて、多くの人は無限回の試行を収束級数によって有限時間に写し、問題解決とする。しかし、それは「神の作業」を公理的に利用することによって、有限の試行と無限の試行を有限時間という別の何かに写して「区別をつかなく」しているに過ぎない。そして、神の作業について何も触れないのだから、何も解決していないどころか問題を増やしていると言える。
 もっと言うならば、有限試行を無限時間に発散させる写像で写した場合、任意の有限な試行は無限時間かかるのだから実現不能だと言うのだろうか。そういう話である。
 多くの人は、「現実に流れている時間なる直観」が一体何に依って「適切な諸概念と関連付けられるか」という問題が横たわっていることについて認識していない。試行という抽象化されたパラメータが与えられているのに、わざわざ時間という得体の知れない概念に関連付ける必要など無いのである。

 さらに危険なのは、ゼノンのパラドックスが「問題として成立しているか」というさり気ない疑問提起だ。あまりにも危険な主張であり、説明することすら躊躇われる。

 結論として、この本は最初からいきなり選択公理と論理体系という「腫れ物」を読者に押し付けてくる。あまりにも危険である。唯一の幸運は、この本の存在が法則を破綻させたりはしないことだ。
 しかし、同時に思うのは、むしろこの時間という奇妙な概念にこそ選択公理の存在を意味付ける何かが横たわっているのではないかということだ。つまり、あまりにも奇妙であるにも関わらず、選択公理は我々が自然と利用している何かなのかもしれないと逆理的に思わせてくれる。