一敗地に塗れると田畑が潤う
フランスの諺。
考えてみると、ヨーロッパの諸革命における死者のイメージは血で、一方で中国の成句である「一敗地に塗れる」における死者のイメージは散らばった内臓や脳漿である。
この違いはもしかすると都市化しているかどうかなのではないかと思った。ヨーロッパの都市の石畳の上で死ねば血が一面に広がるが、中国の広大な平原で死ねば血は大地に吸われて飛び散った臓物だけが残る。もちろんヨーロッパも当時は多いに農業国だが、革命と言えば都市で起こるものだった。
そう考えてみると、革命を云々する前に、都市という謎の社会的存在について我々はより深く知らねばならないのだと思い知らされる。
【国際法の定義】
個人の総和が集団である、という還元的な考え方の人は結構いる。そうすると国内法の総和が国際法であるという見解だって通りそうなものだ。通らないが。
【こぞってルソー】
一敗地に塗れるとルソーが潤う。これは正しい。
どのような意味においても自治会はフランス革命の系譜上には存在しない。その批判者も同様である。もし革命被れが自治会を非難するなら、相も変わらずルソーを引用したり、あるいは「自治会は全体意志と一般意志の違いを理解できないのみならず、ごく一部の特殊意志の和を全体意志と混同している」などと非難するだろうが、そんな人間はただの一人も見た事はない。
なんにせよ伝統的な左翼、革新勢力を理解したければ、マルクスよりもルソー(※)を読むべきだ。と民青に教えてあげたい。でもだめみんせいはほしゅだから。
※マルクスという幼馴染エロゲ主人公よりもルソーという鬼畜エロゲ主人公
※ここで言うエロゲとは伝統的エロゲのことである。
【マルクス-エンゲルス理論】
マルクスはエロゲ主人公であるが、エンゲルスはプレイヤーである。それに気付いた瞬間、私は快哉を叫んだ。エンゲルスのようなシャープでクリア(で金持ち)なプレイヤーが存在しなければ、エロゲはその頭角を現す事はできないことを歴史は繰り返し証明し続けているに違いない。
【私の愛した左翼】
最近はpediaにもマルクスのエロゲ人生の一端が描かれるようになったようだ。私がわざわざ図書館の隅から怪しい本を発掘しなくても良い時代になったということだ。しかし、ああいった便利なネット字引が発達しても、人々は根本的な無知と精神の貧困からは解放されていないように見受けられる。
他人を非難しても致し方ないのだが、活動家タイプの人間には常にガッカリさせられる。というのも彼らは酷く不勉強だからだ。私は博覧強記の類いを褒め讃えているのではない。しかしマルクスの名を出すなら、せめてマルクスの著書と彼が生きた時代についてもう少し理解しているべきだ。
現代日本において、死後100年強しか経ていないにも関わらず、マルクスは釈迦とほとんど変わりない存在に成り果てている(※)。釈迦が実際に何を言ったのかは、実はもうはっきりとは分からなくなっている(※※)。それと同じで、マルクスがどのような事実に対して何を言ったのかなんて問題ではなくなり、独自理論の権威付けのための「名前貸し」に成り果てているのである。
※あるいはカール・バルトがニーチェに言ったように「最初から成り果てていたのだ」と引導を渡すべきかもしれない。
※※釈迦に関しては、実のところ何を言ったかが分かる必要は最早あまりない。
私がもうすっかり衒学的なことを言うのが嫌になったのも、結局は通じる相手がいないからだったのだろう。
スミスもリカードも知らない。バクーニンもプルードンもルソー、ヘーゲルさえ知らない。それで何がマルクスだ。何が。お前がマルクスの何を知ってるっていうんだ。
マルクスはなあ、数学音痴の神様なんだよ!
考えてみると、ヨーロッパの諸革命における死者のイメージは血で、一方で中国の成句である「一敗地に塗れる」における死者のイメージは散らばった内臓や脳漿である。
この違いはもしかすると都市化しているかどうかなのではないかと思った。ヨーロッパの都市の石畳の上で死ねば血が一面に広がるが、中国の広大な平原で死ねば血は大地に吸われて飛び散った臓物だけが残る。もちろんヨーロッパも当時は多いに農業国だが、革命と言えば都市で起こるものだった。
そう考えてみると、革命を云々する前に、都市という謎の社会的存在について我々はより深く知らねばならないのだと思い知らされる。
【国際法の定義】
個人の総和が集団である、という還元的な考え方の人は結構いる。そうすると国内法の総和が国際法であるという見解だって通りそうなものだ。通らないが。
【こぞってルソー】
一敗地に塗れるとルソーが潤う。これは正しい。
どのような意味においても自治会はフランス革命の系譜上には存在しない。その批判者も同様である。もし革命被れが自治会を非難するなら、相も変わらずルソーを引用したり、あるいは「自治会は全体意志と一般意志の違いを理解できないのみならず、ごく一部の特殊意志の和を全体意志と混同している」などと非難するだろうが、そんな人間はただの一人も見た事はない。
なんにせよ伝統的な左翼、革新勢力を理解したければ、マルクスよりもルソー(※)を読むべきだ。と民青に教えてあげたい。でもだめみんせいはほしゅだから。
※マルクスという幼馴染エロゲ主人公よりもルソーという鬼畜エロゲ主人公
※ここで言うエロゲとは伝統的エロゲのことである。
【マルクス-エンゲルス理論】
マルクスはエロゲ主人公であるが、エンゲルスはプレイヤーである。それに気付いた瞬間、私は快哉を叫んだ。エンゲルスのようなシャープでクリア(で金持ち)なプレイヤーが存在しなければ、エロゲはその頭角を現す事はできないことを歴史は繰り返し証明し続けているに違いない。
【私の愛した左翼】
最近はpediaにもマルクスのエロゲ人生の一端が描かれるようになったようだ。私がわざわざ図書館の隅から怪しい本を発掘しなくても良い時代になったということだ。しかし、ああいった便利なネット字引が発達しても、人々は根本的な無知と精神の貧困からは解放されていないように見受けられる。
他人を非難しても致し方ないのだが、活動家タイプの人間には常にガッカリさせられる。というのも彼らは酷く不勉強だからだ。私は博覧強記の類いを褒め讃えているのではない。しかしマルクスの名を出すなら、せめてマルクスの著書と彼が生きた時代についてもう少し理解しているべきだ。
現代日本において、死後100年強しか経ていないにも関わらず、マルクスは釈迦とほとんど変わりない存在に成り果てている(※)。釈迦が実際に何を言ったのかは、実はもうはっきりとは分からなくなっている(※※)。それと同じで、マルクスがどのような事実に対して何を言ったのかなんて問題ではなくなり、独自理論の権威付けのための「名前貸し」に成り果てているのである。
※あるいはカール・バルトがニーチェに言ったように「最初から成り果てていたのだ」と引導を渡すべきかもしれない。
※※釈迦に関しては、実のところ何を言ったかが分かる必要は最早あまりない。
私がもうすっかり衒学的なことを言うのが嫌になったのも、結局は通じる相手がいないからだったのだろう。
スミスもリカードも知らない。バクーニンもプルードンもルソー、ヘーゲルさえ知らない。それで何がマルクスだ。何が。お前がマルクスの何を知ってるっていうんだ。
マルクスはなあ、数学音痴の神様なんだよ!