ドン・キホーテ・デ・ラ・さいたま | Study Hard

ドン・キホーテ・デ・ラ・さいたま

 これはラノベだな。手に取るように内容がわかる。

【思うこと】
 数年内に革命を起こすという表現の中には、革命はまだ起きていないこと、そして革命は人為的に引き起こされる事件だという内容を暗に含んでいる。そんなことを言っているうちは中核派は「セクト」の域を出られないだろう。
 俺が活動家ならこう言うだろう。しかし、それは俺がいわゆる活動家になるという「条件付き確率」の元での話であり、その確率は極めてアレ(※)である。

「革命は既に始まっています。多くはそれに気付いていないだけです。数年内に『バスティーユ』を起こします。」

※宗教家∩活動家∩日本=日蓮上人

【思わないこと】
 何が犯罪かは法律で決められているのだと考えれば、すべて犯罪というのは政治的であり、即ち犯罪者というのは例外なく政治犯なのだ。とは言えない。

【思うけど思わないこと】
 実は(自称)平和主義者にも、戦闘的平和主義者と平和的平和主義者が存在するのではないかと妄想した。
 平和主義イデオロギーを唱える者がラヂカルでないのは一見するともっともである。しかし、本当に平穏や平静を求めた人間を知っているとあまり納得も出来ない。禅僧などは(凡夫の来ない)山奥に引っ込んで自給自足でだらりと暮らしていたのだから、個人として真に平和な状態を望むだけならそうすれば良い。
 つまり平和主義者だと吹聴して回るような行為は決して平和的ではなく、従ってここで言う平和とはどのような意味かということである。いわば目的は手段を正当化すると考えるか、あるいは目的は手段を縛ると考えるかの違いだろう。
 ところで、実のところ世の中の大半の人は戦闘的平和主義者である。人間は常に戦争の先の平和を大義として重んじて来たのだから、人間は「平和のためなら戦争できる」生き物であるに相違ない。つまり世の中で浮いた存在としての平和主義者は、平和的平和主義者でしか有り得ない。

 話はかわるが、「健康の為なら死ねる」というのは一見すると奇妙な考えである。しかし、生死と健康不健康は異なる概念でなのだから、不健康で他人の世話になりながら生きながらえるくらいなら死ぬ、という考えだとすれば何もおかしくはない。
 「平和のためなら戦争できる」はそういった考えでは取り繕えないほど奇妙な思想だと思われるかもしれないが、きっとこれだって「健康の為なら死ねる」と大差ない程度の奇妙さでしかないはずだ。多くの人は、平和-戦争概念の定量定性分析にも洗練にも興味はなく、ただもっと実際的な問題を持っているに過ぎない。

【思わないけど思うこと】
 世の中の大半は「平和のための平和」と「平和のための戦争」で、あるいは「平和的手段」と「平和目的」で分裂しているだけだ。どちらも「平和狂い」には違いはない。
 人間と対立するのはちっとも恐ろしくない。でも、人間の根本かもしれない部分に対立するのは凄く恐ろしい。ニーチェも発狂したくらいだ。だから本当に勇気がある行為っていうのは、誰もが何らかの意味で平和を叫ぶ中で、その根本に背を向けることだ。そうは思わないだろうか、ネット左翼(単なるアンチ熱湯浴のこと)諸兄(C)。