非モテ概念の救済のために(4) | Study Hard

非モテ概念の救済のために(4)

【2006-11-15】
 以下の長文の主旨は、書記長が「非モテ問題」をどうしたいのかという大前提に関わるものである。
 まず考えられるのは、「非モテ構造」の中で起きている個別具体的な問題を解決したいというもの。もう一方は、「非モテ構造」自体を問題視し解体しようとしているというものである。前者を非モテ問題の解決と呼ぶなら、後者は非モテ問題の最終的解決と呼ぶに相応しい。

 何度も繰り返すつもりはないが、明らかに「スクールカースト」という表現の指している内容はカースト的でない。恐らくこの用語法は、カーストという単語に抱く「悪い階層区分」という程の個人的イメージを借用することを意図しているのだろう。
 大体、はてな村の御高説だとスクールカースト は『グループ間交流がほとんど行われなくなる』にも関わらず『最下層の「アチュード」に分類された者への仕打ちは熾烈を極め』るようなものらしく、接触が頻繁に在るのか無いのかはっきりしない。これを合理的に解釈すれば、階層間の交流はほとんどないが、アチュード(まんまのネーミングやね)はアウトカーストなので「カースト内」の交流とは見なされない、とでもなるのだろうか。
 細かいことを云々しても仕方ないが、私は書記長の「ユニークから外れたユニークさ」のようなものに興味があるのであって、書記長が固執する村の論理に組するためにこんなことをしているのではない。だから私は(はてな村における)スクールカーストなる概念には強い疑念を抱くが、それは書記長に対する直接の評価でないことをご理解頂きたい。これは私が、「書記長の実際の言行」から「書記長の思い込み」を差っ引く事によって「書記長の書記長たる部分」が露になると考えているゆえである。

 本筋からはやや逸れるようだが、私にはこのスクールカーストという概念が単なる住み分け問題にしか見えない。しかも昔からある、環境依存の住み分けである。また、カーストという単語を使うことにより、そのイメージに合わせようと事実が捩じ曲げられているのではないのかとさえ疑ってしまう。
 書記長の論理をまだはっきり掴んでいないのだが、もし書記長がこのスクールカーストに付与されたイメージに引き摺られて「非モテ」を論じているのであれば、私はそれを「解体」して観察しなければならない。
 また同時に考慮しなければならないのは、構造と(解決すべき)問題は違うということだ。スクールカーストと非モテの構造が同型かという話と、それらの中で問題として認識されていることが同じかという話は直接関係ない。私が見た限りでは、しばしばスクールカーストそのものが(解体されるべき)問題として扱われ、その中で起きている問題を解決するという視点がすっかり抜け落ちた表現が多々ある(※)。

※これは中共における「イデオロギー路線」と「現実路線」の対比と良く似ている。

(追伸)
 つまり、スクールカースト上の問題の原因の一つに、脅迫システムの作用により本来逃避が起こり地理的な住み分けが為されるはずが、学校という閉じた空間では地理的な住み分けの困難さゆえにそれにまつわる問題が起こることがあるのではないか、と言いたいわけだ。
(追伸ここまで)

 一見、書記長は非モテ問題の最終的解決を望んでいるようにも見える。しかし、これも繰り返しになるが、革命というのは「ちゃぶ台返し」であって構造自体は維持しても構わない。ましてや革命思想としての革命ではなく、大変革という程度の意味の日常用語としての革命なら構造なんて関係ない。
 どうにも私は、書記長が「(暴力)革命」でなく「暴力(革命)」を望んでいるように見える。それはとどのつまり、モテる奴は死ねという素朴な感情に他ならない。暴力を振るって、ついでに革命できたら面白いよね的な。それはそれで方向性としてはアリだが。
 以上を踏まえた上で本文を……

『恋愛というのが極めて重要な価値とみなされている』
 これは以前敢えて抽象的に言ったことだが、Sさんに指摘されたので言い直すことにする。
 書記長はどうやら恋愛行為そのものに効用を見出しているようだが、恋愛はそれ自身で閉じているのかという問題があるというのが以前言ったことだ。具体的に言えば、「恋愛の前後にあるもの」を無視して恋愛行為とその効用を語りうるのかという問題になる。

『構造から逃避』
 逃避とは脅迫(システム)における対応の一種だ。他には抵抗、対抗脅迫、服従が選択肢として存在する。これは一応ボールディングの説だが、別にソローキンでも何でも良い。もう一つ、自由について考える必要がある。自由とは一般に特別な関係を意味しているのみであり、特に「嫌ならスルーできる」というのが自由(特に経済的自由)に関する重要なあり方だ。

※つまり交換において、値引き交渉は統制、高いから無視して通り過ぎるのを自由という。

 一般に「嫌ならここから出て行け」が自由と統制のどちらに近いかは個別に検討する必要がある(※)が、脅迫システムが作用した結果「住み分け」が起こったという見方も出来る。つまり私には、書記長は階級や構造の話をしているように見せかけて、ひたすら「住み分け」の問題を論じているのではないかと思えるのだ。

※ブログ・日記にアクセスしない選択肢の存在が自由、買わずに店を出る選択肢の存在も自由、しかし土地を追い出す選択肢の存在は統制である。
※※自由と統制は善悪の問題ではない。特に、自由を善、統制を悪とする考え方は思考の混乱を来している。さらに混乱すると、良い統制を自由、悪い自由を統制と称しはじめる。

 長くなったが、要は書記長は「自由か統制か」の問題上でこれを論じているのではなく、「脅迫システム」上の問題として捉えているのではないかという見立てを持った。これは軍事的視点に他ならず、書記長が暴力をしきりに言うのも頷ける。

『ここで重要な問題があり、このような形でのカーストの打破は新たな価値観によるカーストの発生になってしまう』
 とまあここからは、書記長が非モテ問題の最終的解決を望んでいるように見える。つまり構造そのものの破壊を指向している。

『人を物扱い』
 人を物扱いするというのは2つ考えられる。1つは、人間が人間であるゆえに人間を特別視するのをやめるということ。もう1つは、人間の類いとして物とは区別しているが、対等な個人として認識しないということだ。
 ここで問題になるのは、恐らく書記長は後者の意味で使っているのに対し、元長氏は前者に近い意味で使っているようだということだ。意図的な誤用かは知らないが、何となく根深いものを感じる。

『精神への後退』
 要は心の持ちようだと言い出さないことを切に祈る。

『脳内他者を仮構』
『そうである以上人を物として扱わなければならない』
 こちらは少し元長氏に近い意味で言っているような気がする。ただ、他者(それどころか自身をも)を十全に理解することなど不可能なのだから、結局は対象として部分的に解釈し認識するしかない。
 もし書記長の言う事が、「座標系が違うんだから違うに決まってる」と言っているようなことだとしたら困ったものだ。しかし、人間全体は可微分多様体(※)の如く都合の良いものではないというような意味なら同意する。それにしたって局所化する(※※)しか無いのだが。

※wikipediaの多様体の項目に比較的詳細な説明や図が載っているので参考にされると良いだろう。
※※むしろ物扱いするというのは、全人的な見方をやめて、局所的、還元的に人間を対象化するということではないのだろうか。

『恋愛というのは萌えと同じになる』
 「恋愛⊂萌え and 恋愛⊃萌え」の証明ですね、わかります。

【デスポエムと余談と過程】
 Ulysseは関係ありません。

 当該Hentai Gameについて。これも繰り返しだが、奴隷とは商品として扱われる人間のこと。特別な人間関係のことではない。

 むしろ書記長が望んでいるのは、人間の特別視をやめることでも、非モテ問題の解決でもないのではなかろうか。書記長が望んでいるのは唯一つ。

【書記長が望むセカイ】
 恋愛の人間関係における特別視をやめること