非モテ概念の救済のために | Study Hard

非モテ概念の救済のために

 私は書記長の「ダイアリー」を逐一読んではいなかったし、諸経緯についても良く知らない。それでも先日書記長に会って(初対面ではないが)、とても良いキャラクターだと思った。それゆえ書記長の「非モテ」概念に俄然興味が沸いたのであり、あるいはそれについて理解したいと願うようになった。
 私を知る人ほど誤解するかもしれないが、私は書記長が「極端に平均的」な側面を持つ人物だと感じたからこそ興味を持ったのである。それが具体的に書記長の何を示しているのかは私自身すら分からない。もしかすると私は、なぜ書記長にこれほど興味を持ったのかということを知るために、書記長の非モテを紐解こうとしているのかもしれない。
 取りあえずは非モテタグがついている記事だけ読み、各記事について備忘録的に言及することにする。つまり栞。非モテタグによって「非モテ関連記事」が網羅されていない気がするが、取りあえず。

【2006-11-5】
 革命理論における階級とカーストは別物だが。特に「革命思想の源泉」からすれば階級構造が"revolve"する必要があるのだが、どちらかと言えば日本人の革命に対するイメージは「階級の廃止」のような気がする。もし本気で階級という単語を使いたいなら、階級の構成要素と今後の予定(ここ重要)くらいは書いてほしいものだ。この辺りを細かく突いても無意味だが、一応。

『自らが幸運な人間であるという事実』
 馬鹿女(?)「くー」が「モテ行為=万人の幸福」であるという錯覚の元に糞記事を書いたら書記長が噛み付いたという構図のような気がする。しかし書記長も「くー」が幸福な人間だと断じている時点で同じ前提に立っている気がするのだが……

※極めて重要なことだが、万人共通の目標が存在するのかという命題が含まれている。学術的には無いと考えられているが、命題の曖昧さ故の解決不能性かもしれない。

 むしろ同じ前提に立っているのが書記長なのだろう。だから「書記長の周りの人間」がその前提を否定して「モテ概念の拡張」を説くのは余計なお世話ということだ。なんせ書記長は、自分は社会的理由で馬鹿女と「対面座位で相手を乗せて、挿入(いれ)たままで『好き(ちゅっ♪)』お互い、にこりん(*^-^*」が出来ないと嘆いているのだから。

 これに関する長文は下方にパージした。

【2006-11-6】
『ONEの原画が樋上いたるでなく漫☆画太郎であれば』
 大興奮。

『金があれば恋人になるというのは、恋愛ではなく売春の一形態』
 効用だと考えれば、金でなろうが、顔でなろうが、火力でなろうが同じではなかろうか。個々が何に価値を見出すかだ、というのは書記長が直前でした議論に含意されてないのだろうか。
 むしろ売春は恋愛(産業)の一形態とした方がまだしも理解しやすい。

『コミュニケーション』
 恋愛⊂コミュニケーションなる包含関係、かな。書記長の主張は。

『世界に対応しない語りえぬこと(愛といった脳の産み出した概念)は沈黙せねばならない』
 ウィトゲンシュタインを持ち出す以上は数学的厳密性の洗礼を受けてもらわなくては困る。事象から写る像が思考の対象(⊃脳の産み出した概念)なのだから、確かに「対応」を持たない像は存在しない。もう少し正確に考えれば、世界は定義域側であるのに対して、概念は値域側のはずだから、書記長の言う事を整理してみると次のようになる。
 値域側の全体集合をSとおく。さらになんか知らないが対応(というか写像でないと困る)を産み出すもの(脳?)の働きをfとおく。するとf:世界→Sに対して、S\Imfが定義でき、愛∈S\Imfとなる。というのが書記長の主張だと思う。
 ところで全体集合Sは何なんだろうか。S\Imf≠Φ(空)だとすると、それこそ存在が確かめられない神秘に包まれたSが気になるではないか。なのに愛という概念をちゃんと脳が認識しているのだから、なにがなんだか。

『シャノンの情報理論』『ゆえに恋愛は不可能である』
 情報上の話? 前提と過程と結論(の範囲)が不明で困る。元長って誰。

『精神に後退』
 情報空間から精神空間への引き戻し、みたいな数学的イメージで良いのだろうか…?

『大きな物語の喪失』
 私には恋愛至上主義による万人恋愛社会への努力(先日の馬鹿女の、万人共通の努力可能目標としての恋愛妄想)の方が余程「大きな物語」に見えるのだが……

『神性』
 何を神性と称しているのか今ひとつ。少なくとも人間は神に選ばれて他の動物と異なる性質を獲得したとは考えていないようだ。

『性的対象』
 私が民青(という概念)を「性的対象」と見なしていることについて書記長はどうお考えになるだろうか。

『自覚している』
 ある種の階級理論において「自覚できない状況に置かれている」というのは重要な言説だが、ことモテ-非モテ階級理論においては関係ないらしい。

【2006-11-5からパージされた文章】
 先日の話の中で書記長は「非モテ階級に属することにより可能性を閉ざされる」ということを言いたがっていた。しかし私がそこで思ったのは、むしろ「モテ階級」こそモテるという事実ないし事象に安住して自らの(人間としての)可能性を制限しているのではないかということだ。
 私は書記長の言うモテ-非モテ軸が何を意味しているのか分からないのだが、適当に幾つかの条件を考えてみた。

・モテ、非モテは生与であり不変
 こう仮定すると、モテ側はモテることによる義務(つまりモテ行為)に時間を割かなくてはならず(そうしなければ社会的モテとして認識されない)、一方で非モテ側はそれ以外のことに時間を使える。つまり可能性一般という意味ではモテ、非モテ双方ともに制限されていると見なせる。

・モテ、非モテは努力により移動できる
 この条件は書記長説とは相容れない。あとモテが努力、非モテが非努力(ないし努力不可)とする。そうするとモテ側はモテに労を費やしているのであって、当然機会費用の観点からその他の可能性を潰している。さらにモテることについて非正の評価を与えてやれば、モテは要らん事に労力を費やしているとなる。

 このようにして、非モテはモテに比べて一般に可能性を制限されているとは残念ながら言えない。要するに書記長が何を考えて、何の可能性について話しているのかだ。
 考えられるのは、書記長は純粋に「モテ・非モテ」概念上に話を絞っており、それによって制限される可能性とは「キャッキャウフフ行為」だということだ。恐らく書記長は「異性と楽しく過す」ことにのみ話を集中しているようであり、また他の人が書記長に言うのは「同性と楽しく過す」のでは駄目なのかということだ。
 以上から、書記長は「異性と生物的本能に基づいた精神的交流を楽しみたいのに、それが何らかの社会的理由で制限されている/不可能」ということが言いたいのだと察する事が出来る。

【ここまでの総括】
 よく諸方面から苦情が来なかったものだ。先日の「かわいがり」で「RMAの社会学」と冗談で言ったが、これでは本当に「いかにも社会学」だ。
 多くは内容に触れているようだが、私は用語法が気になって内容どころではなかった。元ネタのニュアンスに忠実でもなければ、まったく無関係のようにも見えず、それらしき解説もないという一番困った濫用法だ。せめて私のように明らかに無関係に濫用してくれれば……
 一瞥してそれらしき指摘もなく、はてな村は知恵遅れの巣窟なんじゃないかという疑念に駆られている。