プロレタリア文学と声オタ概念の統合にむけて
この調子で各種概念を統合していけば、いつか自分も石田皇帝のような素晴らしいセカイを提唱できるようになると確信する次第である。環境が人を作るとは良く言ったもので、人一倍の空想を重ねたつもりの私ですら皇帝陛下の妄想の足下にも及ばない。
ただ「なりたい」と願うだけでは遠く届かないセカイが何故あるのか。それは、模倣者はその表層や結果を指向しているのみであり、その本質に至ろうとしないからである。しかしそれは同時に、模倣者の大半は時代の要請や分布を排除した奇妙なセカイに到ろうとする空想家であることも示している。模倣者とは、模倣対象の基底を獲得せんとする人物のことではなく、良く知られた幾つもの法則を一足飛びに超えようとする高度の空想家なのである。
さてようやく本題である。
先刻私は卵ご飯を食べながら、自分が女工哀史を大好きであることに気付いた。まず簡単に説明しておくと、女工哀史は実在した女工の記録ではなく、実在した女工たちをネタにした二次創作であり、いわば「ナマモノ」である。
ここからが重要なのだが、女工哀史という小説は女工の悲哀を綴る文学作品ではなく、女工を見て勝手に悲惨がる創造行為のある形式による結実に他ならない。そしてそれは文学作品という形式をとる必要はない。私は「嬉しそうに将来の展望を語る中国のハンダ付け工場の女工の脇で、慣れない作業に疲れた日本の大学生が沈痛な面持ちで『それらしきこと』を語る」というテレビ番組を観たことがあるのだが、これこそ「女工哀史」なる創造活動の一形態なのである。
次の論点に移る前に簡単な歴史を述べるなら、女工哀史の如き創作は当該作品以前にも絶え間なくなされており、辿っていけば工業化しつつあるイングランドにまで遡れる。そして、より多くの労働とそれに比例する賃金を望む女工の傍で勝手に悲惨がる人物たち、という構図も既に完成していたのである。
さてここまで読んで頂いた方に謝らなくてはならない。
女工と女工哀史の関係を声優と声オタの関係と同期させる新しい何かを思いついたはずだったのだが、卵ご飯の余韻とともに霊感は消え去った。私が失ったものを取り戻してくださる方の登場を期待するばかりである。
ただ「なりたい」と願うだけでは遠く届かないセカイが何故あるのか。それは、模倣者はその表層や結果を指向しているのみであり、その本質に至ろうとしないからである。しかしそれは同時に、模倣者の大半は時代の要請や分布を排除した奇妙なセカイに到ろうとする空想家であることも示している。模倣者とは、模倣対象の基底を獲得せんとする人物のことではなく、良く知られた幾つもの法則を一足飛びに超えようとする高度の空想家なのである。
さてようやく本題である。
先刻私は卵ご飯を食べながら、自分が女工哀史を大好きであることに気付いた。まず簡単に説明しておくと、女工哀史は実在した女工の記録ではなく、実在した女工たちをネタにした二次創作であり、いわば「ナマモノ」である。
ここからが重要なのだが、女工哀史という小説は女工の悲哀を綴る文学作品ではなく、女工を見て勝手に悲惨がる創造行為のある形式による結実に他ならない。そしてそれは文学作品という形式をとる必要はない。私は「嬉しそうに将来の展望を語る中国のハンダ付け工場の女工の脇で、慣れない作業に疲れた日本の大学生が沈痛な面持ちで『それらしきこと』を語る」というテレビ番組を観たことがあるのだが、これこそ「女工哀史」なる創造活動の一形態なのである。
次の論点に移る前に簡単な歴史を述べるなら、女工哀史の如き創作は当該作品以前にも絶え間なくなされており、辿っていけば工業化しつつあるイングランドにまで遡れる。そして、より多くの労働とそれに比例する賃金を望む女工の傍で勝手に悲惨がる人物たち、という構図も既に完成していたのである。
さてここまで読んで頂いた方に謝らなくてはならない。
女工と女工哀史の関係を声優と声オタの関係と同期させる新しい何かを思いついたはずだったのだが、卵ご飯の余韻とともに霊感は消え去った。私が失ったものを取り戻してくださる方の登場を期待するばかりである。