あるいは麻雀漫画と麻雀の関係
【タイトルあるいは結論】
以下の話の肝は、麻雀の話をしていたら突然「咲」の話をされたときのモニョり感である。咲では実感がないなら「哭きの竜」などでも良い。
哭きの竜の場合は特に顕著で、登場人物たちはよく麻雀を打っている設定だが、読者からすればヤクザや雀ゴロを自称する萌えるオッさんたちがhentai的展開を繰り返しているだけであり、麻雀との関連は麻雀牌やそれらしき動作だけだ。麻雀的意匠が登場したから麻雀漫画だというなら、ジョジョはプッチ神父が素数を数えてたので数学漫画だ。
【数学風味小説と数学の関係】
無差別数学談義なんてするから悪いと言われればそれまでだが、数学の話をしているときに「博士の愛した数式」なるフィクション作品を持ち出されると大変にモニョる。
内容を責めるつもりはなく、むしろそれで少しでも数学に対する奇妙な恐怖心が緩和されるなら大変に素晴らしいことだ。しかしこちらは曲がりなりにも数学の話をしているのであって、数学風の意匠を凝らした娯楽作品の話をしているのではないのも確かだ。その作品に対する評価を聞いてくるならばともかく、ただその作品を読んだという情報だけ提供されても、それまでの話と独立しているので反応しづらい。
数学者というと何でも美しいと褒めると思われている節があるが、本当に「美しさ」だけが評価基準なわけではない。ただ「美しい」に類するが異なる表現が有り得る場合でも美しいを多用するのは確かで、それゆえ印象的なのだろうが、この表現には多分に消極的な意味合いもある。例えば「役に立つ」と言いたくても、役に立つなどという薄汚れた表現では語弊が大き過ぎるので、仕方なく美しいと言わざるを得ないというようなことだ。
また数学者の感性における「美しさ」というのはそれはそれで独特のもので、前述の作品において使われているような場面では実際の数学者はまず美しいとは言わない。ただ誤解のないように言っておくと、作中に用いられた幾つかの公式等は本質的には「美しい」。
【閑話休題あるいはT氏について】
かの有名なヒルベルトは、ある命題の価値は、その命題が証明されることによって如何に多くの命題が生み出されるかにある、というようなことを言った。それに喩えるなら、その話をすることによってより話に広がりが生まれる話こそが価値ある話だということになる。
上の例で言えば、「博士の~」は数学そのものの話にとってはほとんど価値がないということだが、そこで思い出したのが某サークル(ちなみに現部室は学館)で大人気の"T氏"である。
なぜT氏はあんなにモニョりなのかというときに、T氏の話には広がりが生まれないからという説を考えてみた。T氏の特徴を書き出してみよう。
・他人が興味のない話を延々とする
・他人に興味をもたせようと工夫して話をしない
・むしろ面白い話であるという大前提で話が閉じている
文章にするとこんな感じになり、こんなことは誰しも多かれ少なかれやらかしている。つまりは程度の問題であり、定量的な測定法が必要となる。
そこで「話の広がり」という側面から光を当てるのが妥当ではなかろうか。相手が興味のない話をしているからでも長々と話しているからでもなく、そこから話が派生していかないから悪いのだという理屈である。つまり相手にターンが行かないのが悪いのだ。
今度からその測度を以て種々の会話を定量分析してみたい。その結果、T氏がどれほど特異な値を出すかに興味がある。
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以下の話の肝は、麻雀の話をしていたら突然「咲」の話をされたときのモニョり感である。咲では実感がないなら「哭きの竜」などでも良い。
哭きの竜の場合は特に顕著で、登場人物たちはよく麻雀を打っている設定だが、読者からすればヤクザや雀ゴロを自称する萌えるオッさんたちがhentai的展開を繰り返しているだけであり、麻雀との関連は麻雀牌やそれらしき動作だけだ。麻雀的意匠が登場したから麻雀漫画だというなら、ジョジョはプッチ神父が素数を数えてたので数学漫画だ。
【数学風味小説と数学の関係】
無差別数学談義なんてするから悪いと言われればそれまでだが、数学の話をしているときに「博士の愛した数式」なるフィクション作品を持ち出されると大変にモニョる。
内容を責めるつもりはなく、むしろそれで少しでも数学に対する奇妙な恐怖心が緩和されるなら大変に素晴らしいことだ。しかしこちらは曲がりなりにも数学の話をしているのであって、数学風の意匠を凝らした娯楽作品の話をしているのではないのも確かだ。その作品に対する評価を聞いてくるならばともかく、ただその作品を読んだという情報だけ提供されても、それまでの話と独立しているので反応しづらい。
数学者というと何でも美しいと褒めると思われている節があるが、本当に「美しさ」だけが評価基準なわけではない。ただ「美しい」に類するが異なる表現が有り得る場合でも美しいを多用するのは確かで、それゆえ印象的なのだろうが、この表現には多分に消極的な意味合いもある。例えば「役に立つ」と言いたくても、役に立つなどという薄汚れた表現では語弊が大き過ぎるので、仕方なく美しいと言わざるを得ないというようなことだ。
また数学者の感性における「美しさ」というのはそれはそれで独特のもので、前述の作品において使われているような場面では実際の数学者はまず美しいとは言わない。ただ誤解のないように言っておくと、作中に用いられた幾つかの公式等は本質的には「美しい」。
【閑話休題あるいはT氏について】
かの有名なヒルベルトは、ある命題の価値は、その命題が証明されることによって如何に多くの命題が生み出されるかにある、というようなことを言った。それに喩えるなら、その話をすることによってより話に広がりが生まれる話こそが価値ある話だということになる。
上の例で言えば、「博士の~」は数学そのものの話にとってはほとんど価値がないということだが、そこで思い出したのが某サークル(ちなみに現部室は学館)で大人気の"T氏"である。
なぜT氏はあんなにモニョりなのかというときに、T氏の話には広がりが生まれないからという説を考えてみた。T氏の特徴を書き出してみよう。
・他人が興味のない話を延々とする
・他人に興味をもたせようと工夫して話をしない
・むしろ面白い話であるという大前提で話が閉じている
文章にするとこんな感じになり、こんなことは誰しも多かれ少なかれやらかしている。つまりは程度の問題であり、定量的な測定法が必要となる。
そこで「話の広がり」という側面から光を当てるのが妥当ではなかろうか。相手が興味のない話をしているからでも長々と話しているからでもなく、そこから話が派生していかないから悪いのだという理屈である。つまり相手にターンが行かないのが悪いのだ。
今度からその測度を以て種々の会話を定量分析してみたい。その結果、T氏がどれほど特異な値を出すかに興味がある。
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