声優には永遠のファンも永遠のアンチもいない | Study Hard

声優には永遠のファンも永遠のアンチもいない

 ただ商売の都合があるのみである。
 ん、国益に関する説明を声優業界に喩えて話すと分かり易い気がして来た。

 国家とかクニとか言った場合に国民国家や「帝国」といった特定の形態のみを前提とするのは、CVと言った場合にCVAに限定するような愚かさである。
 待てよ、CV集合に位相を入れないと精密な話が出来ないな。離散位相は必要だろうか……

【猛省】
 24日の国技館に関する珠玉の感想文一般を見て、私は随喜の涙に濡れた。
 それと同時に、私は声優に対して誠実ではない、つまり声優そのものを観ていない、ということが思い知らされ恥じ入るばかりであった。私は声優が声オタに与えた対応関係からさらなる対応関係を通じて声優との関係を保つのみである。もちろんそれで性質の良い対応が作れるならば問題ないのだが、残念なことにすべてがKerになってしまうかのような体たらくである。
 具体的には、声オタのブログを通してしか最早声優を観てはいないということだ。どうしてこんなにも声オタは魅力的なのか。遺憾なのは、声優概念に数学的構造を適用するような人がいないことだ。これほど声オタがいるのだから2000人くらい居てもおかしくはなかろうに。

【宗教学的声オタ(他者)理解】
 声優ライブという神秘体験は信仰とは区別される必要がある。

 或る光の体験:
 アメリカの片田舎の青年に降って沸いたサイリュームの嵐について。

【会話】
 何が会話かは必要に応じて定義すれば良いだけである。
 いま中高時代の友人と話をしていたが、彼が喝と言ったので、私は電話を切った。私たちは会話の何たるかを自然言語の外で会得したと言えよう。

【ヴォリンガー審美学的非声オタ(自己)理解】
 私はこの記事を読んでこの上なく面白いと思っている。どの一文にも重大な命題が込められているからだ。
 しかし私と正反対の価値観の人間、あるいは前提知識のない人物が読んだときどのように読まれるか。私が面白いと思っているこの記事は実は極めて詰らない、下らない、冗長な、意味不明な代物ではないかということである。

 私が唯一上記文章中で単純な感情を吐露している文がある。『どうしてこんなにも声オタは魅力的なのか。』という部分だ。もし上記文章を要約するならば真っ先に除去される文章であるにも関わらず、まったくこれらの文章の中で最も本質的な(根本命題に関する)文章を挙げよと言われればこれを選択せざるを得ない。
 つまり表層的な意味内容の伝達と、その根本にある系の理解というのは、本質的に異なる視点だということだ。

 しかし論文ではないのだから意味内容の伝達や客観性よりも、体系の理解の方が重要に決まっている。体系さえ理解すれば、もはやその人物が眼前に居る必要はない。自由自在に「彼ないし彼女」を呼び出し、好きなことについて「会話」することができる。
 然る後に、その人物が眼前に現れたとしても話すべきことなどない。ただ三棒を喰らわせてやればよろしい。