無題とは適切な題がないという自然言語の限界を表しているに過ぎないのだなあ
鈴木先生の巻頭言を何の気なしに読んで、やはり格が違うなと思った。しかし同時に史学者だなとも思った。
こんなことを言うと非難囂々だろうが、私が同じ題材に対してコメントをしなければならないとしたら途中まで似たようなことを言うと思う。一方で文章の終わりについてはかなり違った表現になりそうだ。それは端的に言って「1歩引く」という表現を巡る違いだろう。
この表現を見てSさんのことが思い出されて仕方がなかった(ブログで紹介されていた本はどこに売っているのかなとか)のはともかく、私の「文学部方面」に対する拙い理解から推察するに、恐らくこの「1歩引く」という表現は「当事者性」に対応する表現なのだと思う。まあ史学者が間違えても「当事者性」などとは言わないと思うが、一方で「1歩引け」と言わなければならない状況というのを鑑みるにほとほと嫌気がさす、ような気がする。
ここから先は純然たる憶測であるがゆえに段落を変えて言うが、「当事者性」とは、「現実と乖離した学問はない」という言説がいつの間にやら「学問が現実の(生活の)役に立たなくてはならない」という言説にすり替えられ、しかもそれが「文学部的『方法論』」と結びついた特殊の観念なのではないかと思う。憶測とは言ったが、実際は「学問(ないし理論)が活動の肥やしにならなければいけない」という妄言を聞き過ぎたがゆえの、文学部全般に対する私の偏見だったりもする。むしろ満載13,000tクラスの偏見である。
まあ偏見は置いておくとして、私は数学に対する中途半端な傾倒という悪癖のせいで「1歩引く」という単語を座標変換としてとらえてしまいがちだ。むしろわざとそういう意味でしか理解しないようにしている。そんなわけで、「1歩引く」という表現に対しては「ガリレイ変換?」みたいなことしか思わないし、「当事者性」などと言われても「座標中心の設定方法?」としか思っていない。
それで冒頭に戻ると、つまり鈴木先生は史学者であって数学者ではないなあという当たり前すぎて何の意味もないことを言いたかっただけである。
ここまで読んでいる人はいないだろうと最後に鈴木先生に歯向かうようなことを書くと、観測者の位置による不変性があるなら1歩引こうが1歩押そうが(当事者だろうが)関係ないし、観測者の位置が難しい問題を起こすのであれば1歩引くという概念は洗練される必要がある。そういうお話。
何にせよ、我々は戦争という事象についてまだ多くを知り、洗練することが出来るはずだし、人命に宇宙最高の価値を置く特殊の宗教(トインビー)からの圧力に屈することは出来ないのだという、そういう何か。
【後書き】
本当は「戦艦大和という表現について」という題名で「なんでわざわざ大和限定やねん」ということを無駄に愚痴っぽく書こうと思ったのだが、鈴木先生が強過ぎてもう何も書く気がしないので、それはまた次回ということで。
こんなことを言うと非難囂々だろうが、私が同じ題材に対してコメントをしなければならないとしたら途中まで似たようなことを言うと思う。一方で文章の終わりについてはかなり違った表現になりそうだ。それは端的に言って「1歩引く」という表現を巡る違いだろう。
この表現を見てSさんのことが思い出されて仕方がなかった(ブログで紹介されていた本はどこに売っているのかなとか)のはともかく、私の「文学部方面」に対する拙い理解から推察するに、恐らくこの「1歩引く」という表現は「当事者性」に対応する表現なのだと思う。まあ史学者が間違えても「当事者性」などとは言わないと思うが、一方で「1歩引け」と言わなければならない状況というのを鑑みるにほとほと嫌気がさす、ような気がする。
ここから先は純然たる憶測であるがゆえに段落を変えて言うが、「当事者性」とは、「現実と乖離した学問はない」という言説がいつの間にやら「学問が現実の(生活の)役に立たなくてはならない」という言説にすり替えられ、しかもそれが「文学部的『方法論』」と結びついた特殊の観念なのではないかと思う。憶測とは言ったが、実際は「学問(ないし理論)が活動の肥やしにならなければいけない」という妄言を聞き過ぎたがゆえの、文学部全般に対する私の偏見だったりもする。むしろ満載13,000tクラスの偏見である。
まあ偏見は置いておくとして、私は数学に対する中途半端な傾倒という悪癖のせいで「1歩引く」という単語を座標変換としてとらえてしまいがちだ。むしろわざとそういう意味でしか理解しないようにしている。そんなわけで、「1歩引く」という表現に対しては「ガリレイ変換?」みたいなことしか思わないし、「当事者性」などと言われても「座標中心の設定方法?」としか思っていない。
それで冒頭に戻ると、つまり鈴木先生は史学者であって数学者ではないなあという当たり前すぎて何の意味もないことを言いたかっただけである。
ここまで読んでいる人はいないだろうと最後に鈴木先生に歯向かうようなことを書くと、観測者の位置による不変性があるなら1歩引こうが1歩押そうが(当事者だろうが)関係ないし、観測者の位置が難しい問題を起こすのであれば1歩引くという概念は洗練される必要がある。そういうお話。
何にせよ、我々は戦争という事象についてまだ多くを知り、洗練することが出来るはずだし、人命に宇宙最高の価値を置く特殊の宗教(トインビー)からの圧力に屈することは出来ないのだという、そういう何か。
【後書き】
本当は「戦艦大和という表現について」という題名で「なんでわざわざ大和限定やねん」ということを無駄に愚痴っぽく書こうと思ったのだが、鈴木先生が強過ぎてもう何も書く気がしないので、それはまた次回ということで。