Hentaiゲームあるいは数学の不幸 | Study Hard

Hentaiゲームあるいは数学の不幸

【PONPON篇】
 最近、少々目が霞む気がする。主な理由が部室に導入された「ね~PON?×らいPON!」のせいであることは疑いの余地がない。あれは肉体、精神ともにプレイヤーに甚だしい消耗をもたらし、あるいは肉体と精神を本質的に分離することの困難を強い疲労とともにそのプレイヤーに教訓する。
 何故肉体的に消耗するのか。その理由は至極単純であり、あまりに牌が見分け辛いので常時よく眼を凝らさないと区別さえつかないことにある。現に今日漫然とプレイしていたら必要牌を平然と見逃しまくった。何故精神的に消耗するのか。想像しても見給え、西又絵が横一列に画面狭しと並ぶさまを。綜合するに西又に始まりて西又にて尽す。

【あか坂篇】
 あか坂は唯だ一言にして悉す、曰く「ミンゴス」。
 条件付きではあるが、これは驚くべき名作である。まずBGMの音量を最小にし、然る後ソヴィエト国歌を大音量にて鳴らすべし。画面から目を逸らすとより効果的である。

【暇茶器篇】
 Hentaiとは斯く在り。
 HentaiGameがgameで有り得るとすれば何か。それは選択肢の存在ゆえではなく、名前可変システムに依るものに他ならない。名前を変えること自体にゲーム性があるわけではないが、設定された状況に対しプレイヤーが名前ないしそれに準ずるものを設定することに依ってそのシステムの範囲内で能動的に意思決定することを可能にする。
 上述の説明だけでは抽象的に過ぎるのでもう少し具体的に説明しよう。ゲーム中にプレイヤーキャラクターの名前ないしそれに準ずるものが呼称される機会は多数ある。それらすべてに合致すべき名前は当然一通りではなく、また個々の呼称される場面においてもプレイヤーに依って妥当な名前は異なる。従ってHentaiは名前を変更しながら各場面に妥当すべく繰り返されるべきものである。例えば今日はOPに到る冒頭部だけで小一時間かけて数回に渡りプレイされた。以下のようである。

 PC1
 姓:金
 名:正日
 あだ名:チャン

 PC2
 姓:指導者
 名:金正日
 あだ名:だん

 PC3
 姓:金
 名:原子力
 あだ名:SSN

※各欄3文字までの制限あり
※PC=プレイヤーキャラクター

 PC1は偉大なる指導者同志を指向したものだが、残念なことにあだ名で「チャングン」と呼ばせることには失敗した。何故なら語尾が「くん」なので「チャンくん」となってしまい単なるチャンコロ状態に陥ったためである。
 PC2はPC1の失敗を踏まえ設定したものだ。NPCが偉大なる指導者同志の名前を呼び捨てにするという耐え難い状況の改善が第一であり、またあだ名を「だんくん」とするための工夫を加えた。これは一定の成果を上げたが、ゲームそのものとは著しく乖離しており、さらに異なるPC名の設定を必要とした。
 PC3はとうとうテキスト内容そのものに合わせる形で名前を設定することに初めて成功した例である。この成功はエポックメイキングであり、原子力がとんでもない勢いで稼働したり冷却されたりチェレンコフ光を放ったりと大満足の内容であった。ただ姓についてはPC1、2を引き摺って金とされたが、これは漢の方が妥当であった。何故ならテキスト中で「SSN漢」と呼称されることが可能になるからであり、一方で「SSN金」では何のことかわからない。
 他にもあだ名として「君」で呼ばれることが分かったので「檀君」に設定することが望まれ、幾つもの部分で様々な提案が生まれた。また冒頭部における名前も原子力以外に様々な可能性が有り得る。

【Hentai篇総括】
 このようにHentaiはそのプレイの過程において何らかの意味で著しく消耗するのが常であり、その労力は常人の想像を絶するものがある。今日私が出席した解析力学・量子力学の講義による疲労感をHentaiのそれと比べてみて、明らかにHentaiに依るものの方が大きかった。
 解析/量子力学は仮に天下り的であったとしても体系的であり、記号に到るまで整備されており、数学的厳密性への著しい挑戦と担当教授の宗教に対する不愉快極まる無理解を加味してもなお明快かつ爽快である。一方Hentaiたるや、視覚的困難、頽廃、退屈といった否定的な要素を除いたとしても、その他各種の困難を同時に体現するものであり、その統一とはほど遠い「世界観」を各種名称によって解釈し分類し補完し被覆する作業の困難さたるや想像を絶する。

【Hentai篇展望】
 名前可変システムに依って各種場面をすべて妥当に解釈し得るとき、何らかの良い性質を認識されて良いだろう。もちろんこれはプレイヤーに依る。

【蛇足の代数的構造】
 例のポアンカレ予想に関するテレビ番組を鑑賞するとどうにも遣る瀬無くなる。あの番組の素人臭いナレーションを看過するには数学に偏向し過ぎ、許容するには数学への理解が足りない。
 数学のド素人が鑑賞する前提で作られる以上は何らかの意味で不満な内容になるのは致し方ないことだ。専門家複数が完全に満足する内容にしようものなら、もはや誰も観ない番組になることは容易に想像がつく。

 しかし数学の門を叩いたばかりの私にはあの番組の内容はとても不安にさせられるものだ。
 例えば、同相という概念は確かに「同じ」という概念を洗練したものだが、かと言って日常用語で漠然と言う同じと「同じ」意味であるとまでは言えない。コーヒーソーサーと球(S3?)を同一視するのは構わないのだが、コーヒーソーサーが球だと言っているのではないことが理解されただろうか。だって受け皿は皿であって球じゃないでしょ。大体、ソーサーを球(面?)に写す前に一旦3次元多様体として……などという話は無意味だが。
 もっと気になったのは演出過剰ということだろうか。特に微分幾何学を「古い」と切り捨てんばかりの勢いだったのは酷く驚かされた。幾らトポロジーが流行っていたからといって、いつの時代に微分幾何学が古かったのかすら理解できないし、そもそも古典的というのは現代的でこそ無いかもしれないが顧みられないということではない。
 それに演出の一貫か尺の問題なのかもしれないが、あまりにも「ニュートン主義的」だったことも気になった。ここで言うニュートン主義とは、要するに何でもかんでも古典力学の功績をニュートンに帰するような代物だと思ってほしい。ガリレイからラグランジュに到るまでの巨人たちが美事にスルーされて、いきなりポアンカレに到達してた気がする。あとニュートンは巨人ではあるけど、天才というよりは努力家らしいよ、山本先生談。天才はフックだとか。

 ままならんなあ。