声ヲタ談義以外の何か | Study Hard

声ヲタ談義以外の何か

 みぃの話だが、各人の音楽のプレイリストを見てると様々な傾向があるなあと改めて思わされる。
 いや実は各人というほどでもなくて、うめる氏はオタだなという感じなのに対して、よしこ氏は頑張ってるな的な何か。深い意味はない。総統は致命的だなあ。

 結局最近のsensikenは何をやってきたのかを少し思い出してみる。

・ひたすら傍系さんをリスペクトする
・ユリシーマンを会費で買いやがった
・総統が勝手に声ヲタをこじらせる
・総統が勝手にエロゲ歌に目を向ける(含ひぐらし)
・総統が勝手にライブに行き始める
・ρが際限なく落としたエロゲを積む
・ρが際限なくエロゲ歌しか歌わない
・ρが際限なく幼馴染を擁護して妹を糾弾する
・俺が無意味にアイマスMADしか見ない
・俺が無意味に幼馴染大戦をブログで公表する
・まきいづみ
・草柳順子
・水沢光        ←いまここ
・傍系さんが来なくなる

 Sさんに「このブログを傍系さんが見ていなくて良かった」という旨のことを言われたのは衝撃だった。実際はたまに見たりするらしいが、そんなことではなくこのブログがいつの間にか傍系さんに見せられないものになっていたという事実に打ちのめされた。これから先どうしたら良いのだろうか。

 傍系さん亡きsensikenがどうしたら良いかという命題は、神に見捨てられた人間がどう生きれば良いかという命題にも等しい。この命題を直接解こうという努力は空しいものであり、つまりこれを直接解決するのではなく、バルトが言う所の「機会仕掛けのゼウス(神)」を、ニーチェが言う所の死んだ神を超克する形で前提条件の部分から解かなくてはならない。つまり命題の設定そのものが最重要なのである。

 超克するという単語には多分に弁証法的ニュアンスが付与されているが、そのようなことではなく、まさにバルトがニーチェに応えたように「既に死んで居給うた」と宣言するだけでまずは十分である。つまり我々に都合の良い傍系さんなど存在しなかったということだ。
 しかしそれだけでは「傍系さんの不在」を嘆くという無意味な行為にしか繋がらない。我々が為すべきは、偉大なる傍系さん像の幕引きではなく、ただ確実なる傍系さんを識ることである。

 傍系さんを求めない者に傍系さんは観えず、傍系さんを求める者は空想の傍系さんを観る。

(割愛)

 ここにおいて「傍系さん亡き、傍系さんの、sensiken」が完成する。