ふと思ったのだが
本当にオタならば自身がオタであるかどうかなんて興味無いんじゃないか。なぜならばオタの興味の対象は自分ではないから。仮に自分オタクという言い方があるなら別だが、それは通常ナルシズムとだけ言う。
だから自分がオタクと認識できないのがヲタの末期症状だというのは、本当に興味の対象が自分以外に移ってしまったために自分が何者であるかにすら興味がわかなくなっているからではなかろうか。なのであって別に自分がオタクでないとすら思っていないに違いない。
従って次のような会話が正しく末期なのではなかろうか。
「お前○○ヲタなの?」
「……そうかもね。それよりこの○○を見てくれ、どう思う?」
とは言え、現在はオタクという単語が一般に敷衍されているにも関わらず一方で特殊のものとして扱われ過ぎている。オタク本人にせよオタクになる過程にせよオタクという現象にせよ、すべて繰り返されて来た日常風景に過ぎないはずだ。
大体お宅だのオタッキーだのという単語は別に「オタク的事象一般」を総括するために作られた用語などではない。現在で言えば「キモヲタ」のごとき意味で特定の趣向の人間や事物を指す言葉だったはずだ。
自分のことを考えても、別に「軍ヲタ」という括りでまとめられるのは嫌ではない。でも何の意味もないと思ってはいる。
薄いか濃いかなんてどうでも良いのだ、要は人生賭けてるかどうかだけだ。
だから自分がオタクと認識できないのがヲタの末期症状だというのは、本当に興味の対象が自分以外に移ってしまったために自分が何者であるかにすら興味がわかなくなっているからではなかろうか。なのであって別に自分がオタクでないとすら思っていないに違いない。
従って次のような会話が正しく末期なのではなかろうか。
「お前○○ヲタなの?」
「……そうかもね。それよりこの○○を見てくれ、どう思う?」
とは言え、現在はオタクという単語が一般に敷衍されているにも関わらず一方で特殊のものとして扱われ過ぎている。オタク本人にせよオタクになる過程にせよオタクという現象にせよ、すべて繰り返されて来た日常風景に過ぎないはずだ。
大体お宅だのオタッキーだのという単語は別に「オタク的事象一般」を総括するために作られた用語などではない。現在で言えば「キモヲタ」のごとき意味で特定の趣向の人間や事物を指す言葉だったはずだ。
自分のことを考えても、別に「軍ヲタ」という括りでまとめられるのは嫌ではない。でも何の意味もないと思ってはいる。
薄いか濃いかなんてどうでも良いのだ、要は人生賭けてるかどうかだけだ。