現代のまどろみ | Study Hard

現代のまどろみ

 今や私は現代の微睡みから解き放たれた。すっかり調子が戻りつつある。
 それが何であるかはともかく宗教は阿片ではない。現代の阿片とは「アソビ」という概念である。アソビは人間を堕落せしめ、あらゆる認識から目を背けるための口実を用意する。学問はアソビが取り去った痛みを思い出させてくれるし、宗教はその痛みの中で平静に生きて行くことを可能にする。

 調子が戻りつつあることは今日見た夢でわかる。3、4年前までよく見ていたが最近はまったく見なくなっていた、知り合いや友人が夢に出てきて次々に私を責め立てたり罵声を浴びせてくる夢を見たからだ。
 それでも3年前ならまだそれで良かっただろう。夢で罵倒されずとも、現実に私を罵倒してくれる人がどこにでも居た時期だったからだ。あの頃は、信念の領域で相容れないが故の罵倒だったから私も心地よく聞いていたものだった。
 しかしここ2年はまったく事情が異なる。私への批判や怨嗟の声は相変わらず聞こえてくるのだが、どうにも煽りのレベルが低い。言ってみれば「詭弁のテンプレート」みたいなものをぶつけてくるだけなので、聞く気も起きないのだ。

 学問にせよ、宗教にせよ、さらには活動にしてもそれが自身のものでなければ観るに値しない。他人を啓蒙するための方便はどれも低劣極まりない。そうは言いつつも、いつしか私も他人の言うことをまったく聞かないという過程を通して「無気力、無感動」の領域に身を堕としていたようだ。
 それでは皆さんと夢でお会いできる日を心待ちにしている。

 話は変わるが、我が家において、武士道とは言い訳しないことと表現し得るという認識になりつつある。
 他人のためにやったことだという弁明も他人のせいだという言い逃れも一切受け付けないということだ。ある剣の達人の「私の剣は一生に一度、人を斬る用のためにあるだけです」という言葉にも現れている。人を生かす剣だとか精神の鍛錬のためだという言い訳は不要なのだ。だから私も弓道を学ぶ理由を「生涯一度、人を射殺すためです」と言うのだが、なかなか意味が分かってもらえないようだ。精神の鍛錬なんてGHQ対策の域を出ておらず、武士道とは無関係だ。

 生死に執着しないというのが、宗教そのものではないにせよ、宗教への入門を容易にすると我が家では考えているが、この言い訳しないというのも親和性が高いのではないだろうか。そこには世俗的な意味での人間関係が存在しないからだ。
 武士道は宗教ではないが、宗教と近い部分がある可能性は高い。なんせ、私が習いに行っている道場は「弓道」ではなく「大射道教」の道場なのだから。

 さてp行くか。