自称数学者の休憩時間 | Study Hard

自称数学者の休憩時間

 最近幼女を見ると笑ってしまう。
 と言っても幼女がおかしいのではなく、「幼女を見ている私を見ている私」という概念を想起して笑うのだ。

 私たちのようなオタク文化の最終消費者にとって「幼女を鑑賞している(ことを展示している)人を鑑賞すること」はひとつの楽しみであり、通常は幼女を鑑賞している人と自分は別人だ。しかし幼女がいることを認識した瞬間にそれは自身が幼女鑑賞者になっていることを意味し、同時にその自身を鑑賞している自分がいることになる。そこに言いようのない感情とそれに伴う笑いが込み上げてくる。
 もちろん幼女を鑑賞している別人がいればこんな問題は起きない。しかし風景の中からわざわざ「幼女がいる」ということを事実として選別しているということが既に自身が幼女鑑賞者と同じ立場に立ったことを意味している。

 ここまでは補題。

 最近声優の写真の目の部分に黒線を加工したもの(いわゆる目線を入れたもの)を見るのがとても楽しい。以前なら声優の顔写真など出来れば見たくないものに過ぎなかったが、目線を入れると急に見たくて仕方がなくなる。興奮すると言っていい。
 私は声ヲタ好きであって声優ファンではない、はずだった。しかしここまで来てみると手法の差こそあれ自分が声ヲタとなんら変わらない場所に立っているような気がする。敢えて言うなら、声優ファン兼声ヲタファンに過ぎないと。
 振り返ってみれば昔からそうだったのかもしれない。声優の顔写真を見たくないという感情は考えるほどに奇妙なものだからだ。単に「ビジュアル的に」見たくないのであれば道行く人の顔を見るのも憚られるはずだが、そんなことは一切無かった。白善樺将軍の顔写真を見て喜ぶのと声優の顔写真を見て嘆く感情は同じものではなかろうか。しかしそれだけでは目線を入れたものだけが見たいという話の説明にはならない。

 まず具体的な事例から考え直す必要がありそうだ。
 堀江由子の目線入り写真はもの凄く面白いのだが、意外にも田村由香里の方はそれほどでもない。手塚まきももの凄く面白いのだが、籐野らんはそれほどでもない。草柳順子はそのままが異常に面白いので敢えて入れようとも思わないし。ついでに言うと目線入り写真一般が好きなわけではない。うーん。

 この件に関する社会科学的見地からの返答はお待ち申し上げておりますが、心理的解釈を当方は必要としておりませんので悪しからず。