エチオピア正教と俺
治安機関に協力したくらいで何で大司教やめなきゃいかんのだろうか、どうも現代基督教はようわからん。いわゆるカルトのごとき政治的分類が人口に膾炙し、政治のための作業仮説としての神が自然ともてはやされる現在において、むしろ賞賛されるべき事実として捉えられるのが普通のように思えるのだが。宗教が社会の安定に寄与しなければならないと考えている多くの人にとって、宗教家がいわゆる秘密警察のごとき治安機関に協力するのは当然のはず。
あるいは前教皇のような平和活動に手を出す政治的流れを汲んで登場したら、現教皇は異なる神学の体系を持っていて、今のバチカンには不要と放逐されたということなのだろうか。もし そうだとしたら急いでキリスト教神学の勉強の準備をしないといけない。そこでもし教皇が全知全能の神を捨てたということになれば、もはや作業仮説としての神も弁神論の類いも一切不要となり、大量の司祭たちが不要になるわけだ。そしてキリスト教共同体はいま一度飛躍の可能性を秘めたということになりそうだ。
仮にそうだとしたら古代ユダヤ教と同じくらい低かったキリスト教に対するイメージがシク教やバラモン教と同列にまで上昇するなあ。
あるいは前教皇のような平和活動に手を出す政治的流れを汲んで登場したら、現教皇は異なる神学の体系を持っていて、今のバチカンには不要と放逐されたということなのだろうか。もし そうだとしたら急いでキリスト教神学の勉強の準備をしないといけない。そこでもし教皇が全知全能の神を捨てたということになれば、もはや作業仮説としての神も弁神論の類いも一切不要となり、大量の司祭たちが不要になるわけだ。そしてキリスト教共同体はいま一度飛躍の可能性を秘めたということになりそうだ。
仮にそうだとしたら古代ユダヤ教と同じくらい低かったキリスト教に対するイメージがシク教やバラモン教と同列にまで上昇するなあ。