お、森毅 | Study Hard

お、森毅

 これは宗教ではないという言説の積み重ねによっては宗教とは何かを論ずることは出来ない。従って、宗教とはこれであるという形で答えるしかない。
 ところが一方で、宗教とは何かについて答える際にかつてこれもまた宗教と呼ばれたという歴史的事実を列挙するならば、それはあまりにも多岐に渡り解答不能であるという点に落ち着いてしまう。
 宗教とは何かという問いは、肯定的な問い方をすれば「現在、主に宗教が担当している部分・命題は何か」という問いになり、消極的な問い方をすれば「現在に至ってもなお宗教ないし宗教学に残されたままの問題は何か」という問いになるのではないか。
 加えて言うならば「過去のやり方」で物事を行ってはいけないなどということはないので、単に宗教とは何かと問うならば、当然ながら「過去の担当部分」まで含まれることになる。従って、特にいま問いたいのは「宗教が現在に至っても担当しなければならない部分とは何か」という意味合いに他ならないだろう。

 確実性の問題についても、これは1000年以上問われ続けて来た問題であると同時に、現代においてこそ現代宗教的設問と見なし得る分野であると思われる。
 数学原論の序にさえ『最終的には事実によって未だかつて否認されたことはなかったという, そのことに基礎を置いているものなのである.』と述べられるように、特に宗教でなくとも強く意識される問題である。しかし同時に、『無矛盾性の問題は近代の論理学者の最も専念している問題の一つであり』『矛盾を内蔵しているその理論を無効とすることなしに存続させることは不可能である』としながらも、『そのようなことは決して起こらないということの確実性を, 人は確信し得るものであろうか. この問については, 確実性という, その概念そのものに関するわれわれの能力を越えた議論には立ち入ら』ないものとし、そして『未だかつて矛盾には遭遇しておらず, それゆえに, 将来もまた決してそんなことはあるまい, と期待』するに留めている。
 これはブルバキならずとも他の数学者たちにおいても意識はすれど関わらずに来た問題であり、また関わらないというのがある意味では数学以下諸学の特長と言っても大きく誤ってはいないと思う。

 例えば、確率論において興味深くはあれど実際的理由から遠ざけられている問題に主観確率と客観確率の論争がある。これは現在の数学科なら紹介するに留めるであろう部分だが、一方で哲学科近辺ではしばしば論じ合われていると風の便りに聞いている。
 これを現代宗教が扱うべき問題だと主張されても、少なくとも私にはピンと来ない。このように数学の類いが脇に置いている問題だからと言って、必ずしも現在において宗教が扱うべきとはならない(扱っても良いが)。
 確実性の問題は主観/客観確率の問題よりも一層哲学好みの問題であると思う。しかし、哲学(なかんづく「西洋哲学」)への私の不信もあるのだろうが、これは宗教が扱う方がずっと適切な問題であると確信する。

 ところで、私は宗教と哲学はまったく異なるものだと考えているが、一方で宗教と哲学を広い意味で同一視したり宗教哲学という単語を使う人もいる。単にお互い混乱しているだけかもしれないが、縄張り争いの問題ではないということは注意しておきたい。「宗教はすべての根底である」とか「哲学はあらゆる問題を扱う」と言ってもまったく嘘だとは言えないが、何よりもそういうことを言う意味がない。
 だから冒頭で述べた宗教とは何かという問いは、自分の飯の種を広げるための言い分ではない。単なる詭弁や言葉遊びに陥らないためにも、宗教とは何かという問いの前提として宗教が何に答えなくてはいけないのかという部分が必要である。
 そして宗教というものが一般に定義されなくてもなお、むしろそうであるからこそ、宗教とは何かという問いに具体的に答えなくてはならない。

 ところで日本ではゲーム=遊びのイメージが強いけど、そうなると言語ゲームって言葉遊びのことだと思われたりしてるのかね。