本幹
先日G長に、彼がもっとも気になっていたらしきことについて説明しておいた。
軍事学の構築を目指しているということを言うと、必ずと言って良いほど返って来る反応が「それは戦争を是とするのか否とするのか」という質問である。史記の延長で「天道是か否か」みたいな意味で聞いてる訳でもなさそうなので、まあ要するに、彼らは戦争一般に対する是非を問う以上の洗練された質問が思いつかないだけなのだろう。
学会でもご多分に漏れず、ほぼ必ず「吾々は平和主義である」という旨のことを婉曲に言われる。そんなことは百も承知であるし、平和主義を批判したこともないので、普通はそれっきりである。しかしG長は腑に落ちなかったらしく、今回わざわざ説明する運びとなった。次のようである。
私が構築せんとする軍事学は、いわゆる社会科学の範囲であり、事象を基に構成される体系である。それは「法に依りて人に依らず」という文言からすれば、法に依る部分に近しい。一方で、学会の言う所の平和主義は、個々の人格の有り様の規定を要求する意味で人に依る部分に近しい。少なくとも、より多くの人が学会に入り平和主義を保つべきであるという部分は人に依る部分である。従って、軍事学の構築と平和主義の敷衍は、法と人という異なる部分に向かう以上、何ら衝突するものではない。また、軍事学は戦争一般の是非を論じない。それは経済学が交換一般の是非を論じないようなものである。交換は須く善だとか悪だとか主張する経済学など有り得ない。探究の対象の絶対的善悪を論ずるを以て学問の窮極と為すなど考えられないためである。また、平和主義ないし平和研究と、戦争の何たるかを追究することとが対立する訳でもないということも付け加えられよう。以上のように、軍事学は何ら学会の利害と対立しないものであると私は考える。但し、この道を進む限りにおいては、私は平和主義に組する事は出来ない。平和主義を捧げ持つということは、軍事学の興味の対象であるはずの戦争に対する絶対的価値観を規定することになり、それは学問的思考を大幅に離れることになるからである。
との旨をもっと平易な言葉で事例を交えつつ説明した。なるほど分かりました、とのことであったが、本当に分かったのかはどうでも良い事である。
さて、前置きが随分と長くなったが今日は本幹であった。
まず、白ゆり合唱団の歌う「母」に対する大拍手が印象的であった。録画放送にも関わらず場内の拍手の量は大変なもので、「宗教法人の最終消費者」たる婦人部の威力を見せつけられた次第だ。もちろん録画中の拍手の量も非常に大きく、一方で実に良く練習していたはずの創価グロリア吹奏楽団の霞みようを思うとやるせない気持ちにさえなった。
その後の秋谷第五代(五代目だとppに指摘されるまで気付かなかった)会長までは、いつも通り「破邪顕正」という感じだ。
やはり本打ちは池田先生であり、今回も学会に対する思いが強く感じられた。内容はすっかり忘れたが、ブラジルだった。そう言えば取得学位が200に到達するそうだ。
ところで、池田先生自身が「師弟」を強調されるように、池田先生オリジナルの思想というのは実は少ない。それは脈々と続く師弟の間柄に伝わる変わらぬ真理だからである。そして今日もまたそれを得る事は出来なかった。
牧口先生の創価教育学体系なく、戸田先生はもう何を言ったのかさえ良く分からない現在、何が師弟不二の間柄に伝わるものなのか。ますます気になる所である。
法華経を講じ、かつ日蓮上人を師と仰ぐ以上、禅宗のごとく「不立文字」ではないはずである。さればその法を継ぐ者をこそ、私は師と仰がねばならないのである。ところでそれは池田先生なのだろうか、それとも斎藤教学部長なのだろうか。あるいは。
軍事学の構築を目指しているということを言うと、必ずと言って良いほど返って来る反応が「それは戦争を是とするのか否とするのか」という質問である。史記の延長で「天道是か否か」みたいな意味で聞いてる訳でもなさそうなので、まあ要するに、彼らは戦争一般に対する是非を問う以上の洗練された質問が思いつかないだけなのだろう。
学会でもご多分に漏れず、ほぼ必ず「吾々は平和主義である」という旨のことを婉曲に言われる。そんなことは百も承知であるし、平和主義を批判したこともないので、普通はそれっきりである。しかしG長は腑に落ちなかったらしく、今回わざわざ説明する運びとなった。次のようである。
私が構築せんとする軍事学は、いわゆる社会科学の範囲であり、事象を基に構成される体系である。それは「法に依りて人に依らず」という文言からすれば、法に依る部分に近しい。一方で、学会の言う所の平和主義は、個々の人格の有り様の規定を要求する意味で人に依る部分に近しい。少なくとも、より多くの人が学会に入り平和主義を保つべきであるという部分は人に依る部分である。従って、軍事学の構築と平和主義の敷衍は、法と人という異なる部分に向かう以上、何ら衝突するものではない。また、軍事学は戦争一般の是非を論じない。それは経済学が交換一般の是非を論じないようなものである。交換は須く善だとか悪だとか主張する経済学など有り得ない。探究の対象の絶対的善悪を論ずるを以て学問の窮極と為すなど考えられないためである。また、平和主義ないし平和研究と、戦争の何たるかを追究することとが対立する訳でもないということも付け加えられよう。以上のように、軍事学は何ら学会の利害と対立しないものであると私は考える。但し、この道を進む限りにおいては、私は平和主義に組する事は出来ない。平和主義を捧げ持つということは、軍事学の興味の対象であるはずの戦争に対する絶対的価値観を規定することになり、それは学問的思考を大幅に離れることになるからである。
との旨をもっと平易な言葉で事例を交えつつ説明した。なるほど分かりました、とのことであったが、本当に分かったのかはどうでも良い事である。
さて、前置きが随分と長くなったが今日は本幹であった。
まず、白ゆり合唱団の歌う「母」に対する大拍手が印象的であった。録画放送にも関わらず場内の拍手の量は大変なもので、「宗教法人の最終消費者」たる婦人部の威力を見せつけられた次第だ。もちろん録画中の拍手の量も非常に大きく、一方で実に良く練習していたはずの創価グロリア吹奏楽団の霞みようを思うとやるせない気持ちにさえなった。
その後の秋谷第五代(五代目だとppに指摘されるまで気付かなかった)会長までは、いつも通り「破邪顕正」という感じだ。
やはり本打ちは池田先生であり、今回も学会に対する思いが強く感じられた。内容はすっかり忘れたが、ブラジルだった。そう言えば取得学位が200に到達するそうだ。
ところで、池田先生自身が「師弟」を強調されるように、池田先生オリジナルの思想というのは実は少ない。それは脈々と続く師弟の間柄に伝わる変わらぬ真理だからである。そして今日もまたそれを得る事は出来なかった。
牧口先生の創価教育学体系なく、戸田先生はもう何を言ったのかさえ良く分からない現在、何が師弟不二の間柄に伝わるものなのか。ますます気になる所である。
法華経を講じ、かつ日蓮上人を師と仰ぐ以上、禅宗のごとく「不立文字」ではないはずである。さればその法を継ぐ者をこそ、私は師と仰がねばならないのである。ところでそれは池田先生なのだろうか、それとも斎藤教学部長なのだろうか。あるいは。