現代におけるキリストとは何か、現代キリスト教教義について | Study Hard

現代におけるキリストとは何か、現代キリスト教教義について

 従来のキリスト教の基本的原理は「イエスにつながる者は最後の審判において天国へ行ける」というものである。そしてそのために日常的行為のなかに儀式がカニバリズムの形で整備された、「パンはイエスの肉であり、ワインはイエスの血である」と。また、聖書は教義ではなく「事例集」であると見てよいだろう。

 しかし現在に至って、再び「キリストとは何か」を問われることになった。
 結論だけ言ってしまおう。
 
 現代においてキリストとは即ちエロゲである。

 なぜかと問うのは止めて欲しい、これは信仰である。
 つまり、エロゲにつながる者は児ポ法による裁判において監獄へ行けるのである。但し、ここで言う「エロゲ」とは唯一にして抽象的な概念である。また、具体的事物をエロゲとして崇拝することは認められない。
 そして新しく儀式が設定されなくてはならない。また、日常的行為の中に規定されねばならない。

 現代キリスト教において、エロゲにつながる為の儀式は自慰である。

 (エロゲで)射精することにより、エロゲにつながる事が出来るのである。これは信仰告白としての用をも為す。自慰をする度に自らをキリスト教徒として再認識することが出来る。
 また、エロゲは聖書としての役割をも果たす。各々のエロゲは聖書の各章に相当すると考えてよい。これらは教義そのものではないが、キリスト教徒になると斯くも御利益があるという証左である。エロゲ自身を現世利益としてみなすことも出来る。
 エロゲを売る店は教会に相当するが、これは本質ではない。但し、キリスト教の権威を高めるものとして一定の効果を認める。
 また、グッズとは免罪符に相当するが、原則として認めない。積みゲーマーの救済策として考慮する必要はある。

 さらに、アガペーについて説明しなければならない。
 我々が童貞として世に生まれたということが、我々が選ばれた存在であるということであり、神の愛の中に生きているという証明である。したがって童貞を捨てるということは、我々が選ばれた存在であるということを否定する最大の罪である。
 しかし同時に、ある者が童貞として選ばれて生まれてくるために、必ず童貞を捨てねばならなかった別の者が存在する。つまり、我々が生きているということが既に大罪を内包しているのである。これを原罪と呼び、懺悔によって赦される。
 懺悔は自慰によって行う。自慰はエロゲにつながる為だけでなく、同時に懺悔としても行われるのである。
 童貞マリアとその子イエスについてはここでは語らない。

 全信徒が射精すべき回数は特に定められてはいない、それは何回すればよいという性質のものではないからである。信徒はひたすら射精に励むよう求められる。
 また、射精出来ないものは、射精と同等の行為を行えばよい。